「生きることが、ずいぶん楽になった」書道家 武田双雲さん【インタビュー前編】~日々摘花 第10回~

「生きることが、ずいぶん楽になった」書道家 武田双雲さん【インタビュー前編】~日々摘花 第10回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第10回のゲストは、書道家の武田双雲さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
書道家として独立して20年、武田さんにはずっと「実験」してきたことがあるそうです。前編では、その「実験」を始めたひとつのきっかけとなったある「別れ」についてお話をうかがいました。

コロナ禍が「昭和的価値観」を蹴散らした

ーー近年はアーティストとして作品を発表し、海外でのご活動も増えていますね。2020年にロサンゼルス近郊への移住を計画されていましたが、コロナ禍で見送られたとか。数年前から準備をされていただけに、お気持ちが塞いだのではないでしょうか。

武田さん:それが、そうでもなかったんです。日本にいても、楽しくて(笑)。海外での活動への思いは変わりませんから、確かに、気持ちの揺れはありました。妻とも何度も移住について「どうしようか」と話し合いました。それで、最終的には、「決めないこと」を決めました。

コロナの影響というのは、すごいとつくづく思います。綿密な計画を立ててもひっくり返ってしまうという、ということが当たり前のように起き、世の中のいろいろな物事を決めてはいけない感じにしちゃった。

2021年開催予定の東京五輪もそうですが、世間一般に「決めなければいけない」とされていることを決められないというのはすごく苦しいですよね。だから、「決めてはいけない」というのは大変なことではあります。他方、そのことによって昭和的価値観が一気に取り払われていく感じがあって、僕自身はこれまで以上に楽に生きられるようになりました。

ーー昭和的価値観、ですか。

武田さん:常に成長戦略を立てて、未来を描いていましたよね。教育も決められたことを、決められた通りにやるのが良しとされた。いい大学に入るために勉強する、大会で優勝するために練習をするというように、今は苦しくても、「未来のために頑張る」というのが昭和だったと思います。

僕はその価値観を理解できず、子どものころから萎縮しがちでした。とくに学生時代はそうでしたね。例えば、部活で「優勝を目指して頑張ろう」と言われても、自分には今しか見えないから、ハンドボール部の試合中に「雲がきれいだなあ」とぼーっと空を眺めたりしてしまう。背が高くて運動神経が良く、最初はみんなが期待してくれるだけに、がっかりさせてしまうことも多かったんです。

社会人になってからも、不協和音が完全に消えることはありませんでした。ところが数年前にADHD(注意欠陥・多動性障害)の可能性があるとわかり、「だから、今しか見えないのか!」と自分も周りも納得(笑)。「未来のために頑張る」ということを誰も僕に求めなくなり、個人的にずいぶん楽になりました。

社会的にも、「平成」が終わって「昭和」が遠くなり、「あれ? 自分は何のために頑張ってきたんだろう」と気づく人が増えたように思うんです。さらに、コロナ禍で先のことを決めづらくなったこともあり、「今」を大切にする、一期一会を味わう、という僕が大事にしてきたことをたくさんの人がすっと理解してくれるようになった。だから、僕は今、どこにいてもすごく楽なんです。

千利休ばりの表情で「丁寧野郎」になり切る

ーー武田さんは本当にいつも前向きですね。焦ったり、苛立ったりすることはないんですか?

武田さん:人間は頭にノイズが多く、ネガティブになりがちな生き物。僕の場合、あまり感情的にはなりませんが、イラッとすることもありますよ。例えば、ドライヤーで髪を乾かす時に「もっと早く乾いてほしいのに」と思ったりします。だからこそ、ドライヤーを使う時には、あえて一つひとつの所作を味わうことに決めています。

棚から取り出したら、一回目の前に置き、「聖なる風よ、出でよ」と声に出してから、静かにスイッチを押す。風の気持ち良さを感じて、乾き具合を確かめ、髪がサラっとしたら、「ありがとうございます、ドライヤーさん」と感謝しながら、ゆっくりとスイッチを切る。僕はもともと気持ちが持続せず、動きも雑で、つい物事をこなしてしまうからこそ、千利休ばりの表情で「丁寧野郎」になり切るんです。

結局、頭で「丁寧に」と心がけるよりも、所作を丁寧にした方が瞬間瞬間をしっかりと味わえるんですよね。ドライヤーで髪を乾かすためにかかる時間が5分だとして、同じ5分なら、丁寧に味わった方が楽しい。「髪を乾かす」という到達点を設定し、そこに辿り着くまで頑張るというのではなくて、5分間のどこを切り取っても幸せでいたいんです。

ドライヤーだけでなく、シャンプーも歯磨きもすごく味わいますよ。「ああ、口の中がさっぱりして幸せ。歯ブラシさん、ありがとう」と。同じように人に「おはようございます」と挨拶する時は気持ちを込めますし、取材もこの瞬間を誰よりも楽しんでいるのは僕だと思います(笑)。

そんな風に、20年ほど前から「未来に向かわない」「目標を持たない」と決めて、日常生活の一つひとつの所作を大切にするという実験をしてきました。その結果、ありがたいことに、僕は心身ともに健康で、家族を含め人間関係にも恵まれています。周りとの関係がいいって、これ以上のサクセスはないですよね。

この瞬間は最後。人は常に「死」を迎えている

ーー20年ほど前というと、書道家として独立されたころですね。「未来に向かわない」と決め、「今」を大切にする実験を始めたのは、何かきっかけのようなものがあったのでしょうか?

武田さん:いくつかの背景がありますが、中でも、年齢を重ねるにつれ、ちょっとずつ死というものを意識するようになったことが大きいと思います。20代半ばに初めて個展を開いた時に、知人の紹介で会場の飾りつけなどの手伝いをしてくれた、僕と同じ年ごろのデザイナーの女性がいたんですね。初対面でしたが、すごく一生懸命手伝ってくれ、無償でいいと言われたけれど、何かお礼がしたくて……。後日、「食事でも」と少しやりとりをしていたら、彼女が事故で亡くなってしまったんです。

お母さまからご連絡をいただいて、お葬式にもうかがったのですが、まるで眠っているかのように綺麗なままの彼女の顔を見た時に、「もっと感謝の気持ちを伝えればよかった」とものすごく後悔しました。僕と彼女の関係は、あの1日、個展を手伝ってもらっただけで、僕は彼女のことをほとんど知らない。だからこそ、あの時間は戻ってこないと痛烈に感じて、「あ、これからは絶対、一つひとつの瞬間を大切にしよう」と思ったんです。その後、祖母や、書道教室の生徒さんが亡くなったりして、死を身近に感じる度に、その思いはどんどん強くなっていきました。

まさに「一期一会」ですよね。この瞬間は最後じゃないですか。同じような場面は再びあるかもしれないけれど、この瞬間は最後。常に「死」を迎えています。そうやって生と死を考えると、僕には今を味わうことしか最良の方法が思い当たらないんですよ。

目標を決め、計画を立てて向かっても、その未来は来ないかもしれないし、来ても一瞬で過ぎ去ります。そんな未来のために、今を犠牲にするのはもったいない。この瞬間の素敵なものたちを味わわず、物事をこなして生きたくない。だから、未来には向かわないことにしたんです。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
パッと心に浮かんだのは、熊本県阿蘇郡の湧水です。阿蘇には湧水地が多く、帰省の折によく訪れます。あれが美しいんですよ。ただこんこんと透明な水が絹のように動くさまを見ていると、癒されます。滝も好きで、山間に行くと、地図で滝を探します。全国の滝をめぐりましたが、最後に訪れるとしたら、やはり阿蘇の白糸の滝かな。

南阿蘇村湧水群

火山活動で生まれた巨大カルデラによって良質な湧水の多い阿蘇地域。中でも南阿蘇一帯には白川水源をはじめ、塩井社水源、寺坂水源、湧沢津水源、池の川水源、吉田城御献上汲場、明神池、竹崎水源など名水が多く、「南阿蘇村湧水群」として環境省選定「平成の名水百選」にも選ばれている。
※写真はイメージです。

プロフィール

書道家・武田双雲さん

【誕生日】1975年6月9日
【経歴】熊本県生まれ。東京理科大学理工学部卒業後、3年間のNTT勤務を経て書道家として独立。NHK大河ドラマ「天地人」、世界遺産「平泉」など数多くの題字、ロゴを手がける。近年は現代アーティストとして作品を発表し、2019年アートチューリッヒ出展。著書は『ポジティブの教科書』など50冊を超える。講演会やイベント、セミナーなどへの出演も多数。
【そのほか】身体に優しいオーガニック食材や発酵食品を使ったお味噌汁専門店「MISOJYU」の店舗プロデュースも手がけている。

Information

武田双雲さん公式ホームページ
https://souun.net/
(取材・文/泉 彩子  写真/刑部 友康)