「信じていなかった“易者の父の言葉”」中国料理の鉄人 脇屋友詞さん【インタビュー前編】~日々摘花 第45回~

コラム
「信じていなかった“易者の父の言葉”」中国料理の鉄人 脇屋友詞さん【インタビュー前編】~日々摘花 第45回~
中国料理のシェフとして、テレビや雑誌でもおなじみの脇屋友詞さん。大皿でシェアする中国料理が主流だった時代に素材やプレゼンテーションに自由な発想を取り入れた「ヌーベルシノワ」を定着させた、日本の料理界の第一人者です。
前編では「料理人になりたいと思ったことは一度もなかった」という脇屋さんを中国料理の道に導いたお父様と、「一番の理解者」だったお母様との思い出と別れについて伺いました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

「友詞には食神がついている」。父の一存で中国料理の道へ

−−脇屋さんは15歳で中国料理の道に入り、赤坂「山王飯店」をはじめ数々の中国料理店で修業を積まれました。料理には少年時代からご関心があったのですか。

脇屋さん:小学校のころから時々台所に立つことはありました。母が持病のために寝込むことがあり、最初は父が料理を作ってくれていたのですが、あまりおいしくなくて(笑)。そこで「僕に作らせてくれない?」と頼み、初めて作ったのは炒飯でした。振り返ってみれば、中国料理との縁はそのころからあったのかもしれませんね。

ただ、料理人になりたいと思ったことは一度もなかったです。僕は中学2年まで北海道札幌市で育ち、少年時代は、自宅近くの北海道大学の研究用農場からリンゴをこっそりいただいて叱られるようなガキ大将。将来のことなんて想像したこともありませんでした。
−−そんな脇屋さんがなぜ中国料理の道へ?

脇屋さん:もともとは父が決めた道でした。父は易学者で、顧客の依頼を受け、四柱推命や観相学といった易学の知識をもとに鑑定を行うのが仕事でした。その父が、僕が中学に進んだころから「友詞には食神がついている。料理人になれ」と言いはじめたんです。

「勝手に人の人生を決めないでほしい」というのが本音でしたね。でも、大正生まれの父は厳しく、家庭内では絶対的な存在。逆らうことなどあり得ません。東京・赤坂にあった中国料理店「山王飯店」(2012年閉店)への就職を父が勝手に決め、中学の卒業式の3日後に住み込みでの修業が始まりました。

中学のクラスで高校に進学しないのは僕だけでした。みんなが春休みに遊ぶ約束をしている中、その輪に入れず、それどころか親元から離れて暮らさなければいけないのがつらかったですね。「なんて親なんだ」と思いました。

母は僕が実家から「山王飯店」に通勤すると思っていたようです。中学卒業と同時に寮に入ることを父から聞かされて驚き、泣いていたと後に叔母から聞きました。でも、母は僕の前ではそんな素振りを一切見せませんでした。母は幼くして両親と死に別れて苦労をしたにもかかわらず、いつもほがらかで、おっとりと笑っているような人でした。

穏やかな母の激しい剣幕に“3年の覚悟”を決めた

−−赤坂「山王飯店」はどのようなお店だったのでしょうか。

脇屋さん:宴会場は約500席、レストランは約150席あり、都内でもトップクラスの上海料理のお店でした。当時は約80名の料理人がいて、そのうち30名ほどが中国人。総料理長・陳浩栄さんのもと徹底した分業制度が敷かれた店で、トップは全員中国人でしたね。

僕がついた親方は、花形の「鍋屋」(中華鍋を振るう料理長)の中でもエースの一番鍋(最も大きな中華鍋)を担当する盛福江さん。盛さんが使った中華鍋を流しまで運んで洗い、洗い終わった中華鍋を盛さんのところに戻すのが僕に与えられた主な仕事でした。

当時の僕は身体も細く、中華鍋を持つだけでもひと苦労。朝から晩まで何百枚も中華鍋を洗っては運ぶだけの毎日は、ただつらいばかりでした。勝手に自分の進路を決めた父への反発心もあって、辞めることばかり考えていましたね。それでも辞めなかったのは、母を悲しませたくなかったからです。
脇屋さん:母には何度か「僕にこの仕事は向いていない」と弱音を吐いたことがありました。母は辛抱強く僕の話を聞き、優しくなだめてくれましたが、3回目くらいだったでしょうか。「辞めたい」と言ったら、「いつまでそんなことを言っているの。いい加減に覚悟を決めなさい。3年は必死で頑張って、それでもダメだったら、辞めて好きなことをしなさい」とものすごい剣幕で怒られました。

穏やかな母の一喝は、父に殴られるよりこたえましたね。母の言葉が腑に落ち、3年間は泣き言を言わず頑張ろうと決めました。僕が変わりはじめたのはこのころからです。逃げ道を探すのをやめ、目の前の仕事に集中するようになったからでしょう。親方や先輩たちの厨房での動きが見えてきました。すると、そのすごさもわかるようになり、中国料理を「面白い」と思いました。

中国料理の面白さ、深さにハマって夢中で仕事を覚え、約束の3年が経った時、自分が中国料理の料理人という仕事を好きになっていることに気づきました。一生をかけて中国料理の道を歩もう、と心に決めたのはこの時です。

母への最後のスープと四文字の父の遺言

−−成長していく脇屋さんを見て、お母様はほっとされたでしょうね。

脇屋さん:はい。当時は自分のことだけで精一杯でしたが、僕自身が親になり、ようやく母の気持ちがわかったような気がします。後ろ向きだった息子の話が前向きに変わっていくことを喜んでくれていたのではないでしょうか。

母は子どもたちにたくさんの愛情を注いでくれました。僕は幼いころから母が大好きで、母は僕の一番の理解者でした。だから、母との別れの痛みはまだ消えません。

うちの母は52歳で亡くなっているんですよ。1992年のことで、当時、僕は34歳でした。

−−脇屋さんは27歳で立川「リーセントパークホテル」内の中国料理店の料理長に。最初は閑古鳥が鳴いていたお店を、コース仕立ての中国料理を提供するアイデアと味の確かさで、遠方からお客さまが通う店に成長させました。お母様が亡くなったのは、仕事ぶりが評価され、ホテルの総料理長に就任されたころですね。

脇屋さん:恩返しはこれからという時期に母にがんが見つかり、長男として医師に呼ばれました。医師から母の余命を「長くて1年」と告げられた時の衝撃は、言葉にできません。帰り道に車をガードレールにぶつけてしまったほど頭が真っ白になりました。

母が旅立ったのは、がんが見つかって8カ月後。最後の日々は弟や妹と交代で病室に泊まって看病し、滋養のあるスープを届けました。母はすでに弱っていて、食欲はあまりなかったはずですが、「ありがとう」と言って美味しそうに飲んでくれました。

「ありがとう」を言わなければいけないのはこちらです。食というのは美味しさだけが全てではなく、誰かに元気になってもらうためのもの。生命をつなぐために食はある、という料理人としての根本を母に教わりました。
脇屋さん:母より二回り年上だった父は、1999年に83歳で他界しました。1996年に経営者兼料理長として初めての店となる「トゥーランドット游仙境(ゆうせんきょう)」を麻布に開業し、2店舗目のパンパシフィックホテル横浜(現横浜ベイホテル東急)に続く店を、念願の赤坂にオープンした翌年でした。

「友詞には食神がついている」という自らの言葉の行く末を見届けたようなタイミングでしたが、父がどう思っていたのかはわかりません。晩年は弟夫婦と一緒に暮らし、生活費を僕が援助していました。亡くなる少し前に入院し、僕が聞いた父の最後の言葉は「頼むな」の四文字でした。「家族を頼む」と言いたかったのでしょう。

父の葬儀は東京・芝の増上寺で執り行いました。盟友の「つきぢ田村」3代目・田村隆さん(故人)に精進落としの料理をお願いし、お酒も選りすぐりのものを揃えました。ご会葬の方々に美味しいものを存分に食べ、飲んでいただき、母の時と同様にぎやかに父を見送りたかったんです。

父に対しては、複雑な思いがありました。長い間苦手でしたし、今も父の占いは信じていません。一方で、人生の岐路に立った時、父のアドバイスの言葉はいつも的確でした。料理人として迷った時、悩んだ時に「友詞には食神がついている」という言葉が僕を支えてくれたのも事実です。

だから、何と言うのかな。父の葬儀では息子として、父が僕に求めた役割を全うしたい、という思いもありました。

2023年で料理人人生50年を迎えましたが、両親がいなければ、中国料理の料理人としての僕もいません。天国の父と母には、「ありがとう」という言葉しか思い浮かびません。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
イタリアのサルデーニャ島に行きたいです。20年ほど前に訪れたのですが、この時に泊まった5つ星ホテル「Hotel Cala di Volpe(ホテル カラ ディ ヴォルペ)」が素晴らしかったんですよ。サルデーニャ島の中でも美しいビーチが集まる「コスタ スメラルダ(エメラルド海岸)」にありましてね。レストランもクオリティの高いお店が揃っていて、最高級の料理が次々と出てくるんです。あの幸福な時間をもう一度味わいたいです。

サルデーニャ島「コスタ スメラルダ」

イタリア本土の西に位置するサルデーニャ島は、シチリア島に次ぐ、地中海で2番目に大きな島。ヨーロッパではバカンス地として知られている。とくに島の北東部に広がる海岸「コスタ スメラルダ」はその名の通りエメラルド色に輝き、アラブの大富豪アガ・カーン氏が高級リゾートとして開発した。毎年夏になるとプロサッカー選手、ハリウッドスターなど世界中のセレブが集う。

プロフィール

中国料理シェフ/脇屋友詞(わきやゆうじ)さん

【誕生日】1958年3月20日
【経歴】北海道芦別市生まれ、札幌育ち。中学卒業後、赤坂「山王飯店」、自由が丘「桜蘭」、東京ヒルトンホテル/キャピトル東急ホテル「星ケ岡」などで修行を積み、27歳で「リーセントパークホテル」の中国料理部料理長、1992年に同ホテル総料理長に。1996年、「トゥーランドット游仙境」代表取締役総料理長に就任。2001年、東京・赤坂に「Wakiya一笑美茶樓」、2023年12月に「Ginza 脇屋」をオープン。東京で4店舗のオーナーシェフを務める。
【その他】2010年に「現代の名工」受賞。2014年、秋の叙勲にて黄綬褒章を受章。2023年から公益社団法人日本中国料理協会会長。2023年、料理人人生50年を綴った自伝『厨房の哲学者』が話題に。

Information

脇屋さんの自伝『厨房の哲学者』(幻冬舎)。中学卒業後、易者だった父が決めた中国料理の道へ。中華鍋を洗い続けた下積時代を経て料理人として成功し、コロナ禍も乗り越えて挑戦を続ける現在までの歩みを綴っている。
『厨房の哲学者』脇屋友詞著(幻冬舎)
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)