「胡蝶蘭のウエディングドレス」女優・松島トモ子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第48回~

コラム
「胡蝶蘭のウエディングドレス」女優・松島トモ子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第48回~
4歳で映画デビューを果たして名子役として注目され、18歳から2年半の米国留学で培った英語力を生かして海外レポーターとしても活躍した松島トモ子さん。1986年に訪れたケニアでライオンとヒョウに襲われた事故はあまりにも有名です。

現在もコンサートで歌い踊り、「ライオンの餌」と名付けたブログに軽妙な筆致で日常を綴る松島さんに、紆余曲折の人生を二人三脚で歩んだお母様との最後の日々と別れについてお話しいただきました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

「トモ子ちゃんの立派なお葬式を出すまでは死ねない」が口癖だった母

−−松島さんは4歳で映画デビューして以来、お母さまとともに芸能生活を歩んでこられました。お母様は95歳で認知症と診断される少し前までその気配すらなかったそうですね。

松島さん:90代になっても頭がクリアで、知り合いのお医者様が「トモ子さんはわからないけれど、お母様は絶対にボケません」と太鼓判を押すほどでした。その日から1年も経たないうちに母の認知症の症状が現れ、今はそのお医者様とお会いするたびに「あなた、薮医者ね」「間違えちゃいました」と言い合って笑います。でも、彼のお見立てが外れたのも無理はありません。同じことを繰り返し聞くとか、ちぐはぐな洋服を着て出てくる、といった行動が母には一切ありませんでしたから。

商社員の娘として生まれた母は、香港のイギリス系女学校で学び、ペニンシュラホテルのローズルームで社交界デビューした生粋のお嬢さま育ち。おしゃれで、90歳を過ぎても外出する時にはスーツをきちんと着て、足元はハイヒールでした。
松島さん:リンゴも剥けない私とは対照的に家事も仕事も颯爽とこなし、94歳の時に親子で出演した『徹子の部屋』では、「私が死ぬのは、トモ子ちゃんの立派なお葬式を出してから」と十八番のトークを展開。黒柳徹子さんを大笑いさせていました。そんな母でしたから、私自身、いつまでも母が自分を守ってくれるような気でいたんです。

ところが、テレビ出演の翌月、母の誕生日祝いの食事会で異変に気づきました。好奇心旺盛で人の話を聞くのが好きな母が、誰の話にも耳を貸さず、ひたすら食事を口に運んでいたんです。サインを送ろうと母のスカートに手を触れると、失禁していました。

その日から、母はすっかり変わってしまいました。どんな時もレディで、私とも敬語で話し、人の悪口を言うことなど一切なかった母が、口汚く私を罵り、手当たり次第に物を投げつけることもありました。

後に聞いたところによると、認知症の発症の仕方は本当に人それぞれで、ゆっくり進行するケースもあれば、母のように容量いっぱいまで耐えて、一気に弾けるようなこともあるそうですね。でも、当時は何も知らなくて、ただおろおろするばかり。母は私の憧れの人でしたから、変わり果てた姿を受け入れられず、パニック障害や過呼吸で私も体調を崩してしまいました

発症から3年ほど経って「レビー小体型認知症」と診断された時は、正直なところ、ホッとしました。母の変化が病気のせいだとわかったことによって、それならば仕方ないと思えたからです。

70代ひとりっ子の老老介護

松島さんと100歳を祝うお母さま
−−2021年10月にお母様が100歳で亡くなるまで、松島さんはお仕事を続けながら、自宅介護をされました。松島さんにはご兄弟もいらっしゃらず、どんなに大変だっただろうと思います。

松島さん:私は家事が全くできないので、友人たちからは施設に入れることを強く勧められました。「プロに任せた方がお母様も幸せよ」と言ってくれましたが、私にはできませんでした。母が自宅で暮らすことを強く望んでいたからです。

介護のあり方はご家庭によってそれぞれで、何がいいということはありません。ただ、私の場合は、おそらく一般的な親子とは異なる負い目を母に対して感じていました。

私の両親は1944年夏に結婚して父の赴任地だった旧満州に渡り、翌年7月に私が生まれました。父に召集令状が来たのは、そのわずか2カ月前。戦後4年経って、シベリア抑留中の45年10月に亡くなっていたことがわかりました。

母は満鉄病院で私を産み、敗戦でソ連軍が進駐してくるなか必死で私を守り、命がけで日本に連れ帰ってくれました。同じ引き揚げ船に乗った乳飲み子の中で生き残ったのは、私ともうひとりだけだったそうです。終戦当時、母は24歳。私がその歳で同じことをできたかと言えば、とてもできなかったでしょう。
松島さん:私が4歳で映画デビューしてからは芸能活動を支え、私の隣にはいつも母がいました。私はスカウトをされて芸能界に入りましたが、私も母もそれを望んでいたわけではありません。戦争で男手を失った我が家では、当初母が働きに出る心づもりをしていましたが、私が母のそばを片時も離れようとしなかったことから、母子が一緒にいるための苦肉の策が私の芸能界入り​でした。

母は引き揚げ船を待つ満州で、「この子を無事連れて帰れたら、私は何もいりません」と祈ったそうです。その言葉通り、母は私をサポートすることだけに人生を捧げました。その母が認知症になり、サポートを必要としているのだから、今度は私が恩返しをする番。結婚後わずか半年で出征した父のもとに母を送り届けるまで、この家で私が母を見ようと思いました。

とはいえ、最初から覚悟が決まっていたわけではありません。母が認知症を発症した時、私は70歳。老老介護に疲れ切り、「やっぱり施設に入ってもらった方が良かった」と思ったことは何度もあります。自宅介護を続けられたのは、信頼できるケアマネージャーさんやヘルパーさんなど出会いに恵まれたからです。

介護が始まった時、仕事はいったん全て辞めようと思ったのですが、ケアマネージャーさんから「仕事を辞めてはだめ。逃げ場がなくなるわよ」と諭されて踏みとどまりました。今思えば、本当にその通り。ありがたい言葉でした。

このケアマネージャーさんにお世話になったのは、5年5カ月の介護生活のうち最初の3年でしたが、本当に親身になってくれました。この親子から目を離したら大変だ、と思われたのかもしれません。

「大丈夫よ」。母を抱いて眠った最後の夜

−−お母様はご自宅で息を引き取られたそうですね。

松島さん:母は100歳を超えていましたから、木が枯れていくような静かな最期をイメージしていたのですが、違いました。まるでマグマが爆発するように高熱が出たり、誤嚥性肺炎を起こしたりして、人間の持つエネルギーのすさまじさを感じさせられました。

同時に、「いよいよか」と覚悟しはじめたちょうどそのころ、夜中に母の様子を見に行ったら、目をぱっちりと開けたまま、まんじりともしないんです。「どこか痛いの?」「苦しい?」と聞くと首を振り、「怖いの?」と聞くとうなずきました

死が迫っていることがわかるんだなと思い、介護ベッドの隣に潜り込んで「ずっと一緒にいるから、大丈夫よ」と言うと、母が抱きついてきたんです。そのまま私は起きているつもりだったのですが、いつの間にか眠ってしまって、翌朝、母の冷たいほっぺたに驚いて飛び起きました。時計を見ると、朝6時半ごろ。「ママ、起きて」と声をかけましたが、返事はなく、すでに硬直も始まっていました。

母が亡くなってお通夜まで10日間。結構日数があったので、途中から斎場の安置所に移ったのですが、3日くらいは家にいることができたんですよ。お気に入りのスーツを着て、なじみの美容師さんにヘアセットしてもらい、白い布団の上に眠る母はとても綺麗でした。

花が大好きだった母のために、葬儀会場の祭壇にはバラや胡蝶蘭など約5,000本の花を飾りました。最後のお別れでは、皆さんが棺をたくさんの胡蝶蘭で飾ってくださり、真っ白なウエディングドレスをまとっているかのような母の姿がまぶたに焼きついています。
松島さん:父が亡くなった後、母には再婚の話がいくつも持ち込まれましたが、母はすべてきっぱりと断りました。大人になってその理由を聞くと、母は「お父様が出征なさる時に、必ず生きて帰ってくるから待っていてくれとおっしゃったの」と答えました。

母の生き方はまっすぐで、父を愛し、私を愛し。本当にブレない人生を送りました。それに引き換え私は結構ぶらぶらにブレています。でも、綺麗な母を、少し時間はかかったものの無事に父にお返しできたことだけは、母に褒めてもらいたいなと思います。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
1999年5月、ロンドン・ヴィクトリア駅とベニス・サンタルチア駅間を列車で走る30時間の「オリエント急行の旅」に母と出かけました。喜寿のお祝いとして「どこに行ってみたい?」と尋ねた私に母が珍しくリクエストした旅で、生前の母は「あの旅は楽しかったわね」と繰り返し言っていました。アルプスの美しい山々や運河の水面に映るベニスの街並みが忘れられません。母とふたりで眺めたあの景色をもう一度見てみたいです。

オリエント急行

豪華列車「オリエント急行」は「国際寝台車会社(ワゴン・リ社)」が1883年に運航が開始された、現在のパリとイスタンブールを結ぶ豪華寝台列車に起源を発し、1934年に発行されたアガサ・クリスティの小説「オリエンタル急行殺人事件」で世界中に名を知られた。飛行機の普及の影響で1977年に撤退したが、アメリカの実業家がかつての車両を購入して修復し、1982年に「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」としてロンドン・ベニス間で復活した(ロンドンからの直通列車ではなく、ドーバー海峡は船で移動)。
イスタンブール駅に停まるオリエント急行

プロフィール

女優/松島トモ子さん

【誕生日】1945年7月10日
【経歴】東京都出身。旧満州(現中国東北部)生まれ。4歳で映画界入りし、人気子役として嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」など約80本の映画に主演。また、雑誌「少女」の表紙を10年間一人で務める。現在はTVのバラエティや講演、コンサートなど幅広く活躍している。

Information

恒例の「松島トモ子コンサート 心に残る贈り物」。20回目を迎える今回は、元デューク・エイセスの大須賀ひでき、岩田元、シャンソン歌手として注目を集める小川景司、ピアニスト清水玲子などをゲストに迎えて開催する。チケット発売中。
■日時 2024年7月19日(金) 13:00開場/13:30開演
■場所 成城ホール
■入場料 前売り・当日ともに5,000円

詳細は松島トモ子公演サイト 
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)