「八代目正蔵師匠の、最後の一席」落語家・林家木久扇さん【インタビュー前編】~日々摘花 第53回~

コラム
「八代目正蔵師匠の、最後の一席」落語家・林家木久扇さん【インタビュー前編】~日々摘花 第53回~
人気テレビ番組「笑点」で史上最長の55年間レギュラーを務めた林家木久扇さん。2024年3月に勇退後も変わらず高座に上がり続け、明るく楽しいキャラクターで親しまれています。前編では、木久扇さんの得意演目のひとつとして知られる「彦六伝」に登場する師匠・八代目林家正蔵(林家彦六)さんとの思い出と別れについて語っていただきました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

「お岩さん」に落語を奉納する師匠の後ろ姿

−−木久扇さんが八代目林家正蔵さんに弟子入りされたのは、1961年3月。正蔵師匠74歳、木久扇さん23歳の時でした。

木久扇さん:僕はもともと漫画家志望で、漫画家の清水崑先生のもとで修業してデビューしたのですが、清水先生に「お前さんは落語家になった方がいい」と勧められ、清水先生とお知り合いだった三代目桂三木助師匠に弟子入りしました。ところが、入門して半年も経たないうちに三木助師匠が亡くなり、正蔵師匠にお世話になることになったんです。

三木助師匠時代の僕は見習いとして師匠の看病と掃除、子守に明け暮れ、落語の修行らしき修行を始めたのは正蔵師匠に弟子入りしてから。前座時代の4年ほどは、東京・稲荷町の「噺家長屋」と呼ばれたご自宅で修行しました。

−−木久扇さんからご覧になった正蔵師匠はどのようなお人柄でしたか。

木久扇さん真面目な師匠で、落語の真髄を追い求める姿に多くを学びました。師匠は怪談噺が得意でしたが、「四谷怪談」の「お岩さん」や「番町皿屋敷」の「お菊さん」など怪談噺の傑作には実在の人物をモデルとした作品が結構あって、その人物を祀ったお寺や神社があるんですね。

師匠は新たな夏の興行が始まる前には必ずそういうお寺や神社にお参りに行っていました。例えば「四谷怪談」なら、東京・四谷の陽運寺の「於岩稲荷」に行って、祭壇を前に一席しゃべり、お酒やら果物やらいろいろなものをお供えするんです。
木久扇さん:弟子たちは後ろで控えていますが、観客は誰もいないんですよ。それでも、「お岩さん」に落語を奉納する師匠の表情は真剣そのものでした。僕の落語家人生は60年を超えましたが、師匠ほど丁寧に一席一席に向き合う方を見たことはありません

素晴らしい師匠でしたが、弟子としては苦労もありました。師匠のお家芸は芝居噺でしてね。芝居噺というのは、皆さんがよくご存知の扇子と手ぬぐいだけで語る落語ではなく、鳴り物入りで大道具や小道具も使い、芝居のような演出で聞かせる落語のことです。高座をお手伝いするのはもちろん弟子たちで、これが大変でした

怪談噺をやる時に「焼酎火」というのがありまして、釣り竿を黒く塗って細い針金をくっつけ、真綿に焼酎を染み込ませて火をつけると青く燃える。それを火の玉に見立て、幽霊が現れて師匠が「そなたは豊志賀、迷うたな」と言うタイミングで出すんです。

火は慎重に扱わなければいけません。最初は緊張感を持ってやっていましたが、芝居噺の興行は10日ほどあって長いんです。何度もやっているうちに慣れてしまって、釣り竿を両手で持っていたのが片手になり、挙句の果てに兄弟子とおしゃべりしながらやっていたら、師匠の髪に火の玉がくっついてしまって、アチチ……。まあ、幸い大事には至りませんでしたが。

−−なんと! 正蔵師匠に相当お叱りを受けたのではないでしょうか。

木久扇さん:寄席の最後に怪談噺をやった後、全員でねじり鉢巻きをして「かっぽれ」を踊り、舞台を明るく賑やかにしてお開きにするのですが、お客さまがすべてお帰りになった後、師匠が楽屋に下ってから、「馬鹿野郎!」と怒鳴られました

怖いんだけど、「かっぽれ」の衣装のままで師匠がカンカンになっているから、おかしくてしょうがなくて。もう、当時はそんな失敗ばかりやっていました。
八代目正蔵師匠のもとで修行をしていた、二つ目時代の木久扇(当時・木久蔵)さん

まるで落語のような、愛すべき師匠の最期

−−正蔵師匠は1981年1月に改名して「彦六」を名乗り、翌年9月に86歳で他界されました。

木久扇さん:師匠はずっとお元気でしたが、亡くなる2カ月ほど前に体調を崩し、東京・渋谷区の病院に入りました。泊まり込みで女性の介護スタッフの人がついてくれて、師匠はその方のことを「おばさん」と親しみを込めて呼んでいました
木久扇さん:師匠は律儀な人でしたから、献身的に介護をしてくれる彼女に何かお礼をしたいと思ったんでしょうね。その方に小噺をしてくれたそうです。亡くなる前の晩に、いつも通り彼女が師匠のベッドの下から台を引っ張り出し、布団を敷いて眠りかけていたところ、「おばさんや」と師匠から起こされ、小噺が始まりました

木の枝にぶら下がって「助けてくれ」と叫んでいる人がいた。そこへ助け人が現れて、片腕でぶら下がっている人に小指から「1本外してごらん」「2本外してごらん」と声をかけ、最後に親指と人差し指だけが残って必死に命をつなぐ。ここで師匠が親指と人差し指で丸を作り、サゲ(オチ)で「だからね、これ(お金)だけは大事にしなくちゃいけないよ」

「どうです。面白かったかい?」と言う師匠に、「おばさん」は「つまんないわね」と答えたそうです。これが師匠の最後の一席になりました。まるで落語みたいで、全く最後まで面白い師匠でした。

「彦六伝」で稼がせてもらっています

−−最後まで人を喜ばせようという姿に感激でした。

木久扇さん:亡くなった後もそうだったんです。師匠はもともとお金に固執しない人でしたが、遺言でお葬式をあげず、その分の費用を弟子一人ひとりに30万円ずつ遺してくれました。僕ももらえると思ってご長女のところに催促に行ったら、「あんたと正楽さん(紙切り芸の第一人者として知られた故・林家正楽さん)は売れているから、あげなくていいって遺書に書いてあったわよ」と大笑いされてすごすご退散したんです(笑)。

弟子に遺産分与するなんてびっくりですよね。でも、驚いたのはそれだけではありません。師匠は献体の登録手続きをしていたんです。当時献体は全国的に不足していました。ところが、師匠の献体が報道された後、20年間で500体しかなかった献体登録が1年で360体も増えて、一周忌には当時の文部大臣からご家族に感謝状が届きました
木久扇さん:ただ、献体のことはご家族も弟子も知りませんでした。師匠のご遺体はお亡くなりになってすぐに大学病院に運ばれ、遺言でお葬式もできない。しっかりとお別れができなかったことは、やっぱり心残りでした。このまま師匠の名跡が世間の記憶から薄れて行ってしまうと思うと、悔しくてね。せめて寄席で偲ぼうと、落語のマクラで師匠との思い出話を話したら大受けで、エピソードを付け足すうちに生まれたのが、私の「彦六伝」です

うれしいことに「彦六伝」は師匠を知る世代の人たちだけでなく、学校寄席で中高生の前でかけても大笑いしてくれます。師匠が旅立って40年あまり。あの世にいる師匠に稼がせていただいているなんて、私ぐらいでしょうね。ありがたいことです。

師匠は曲がったことが嫌いで、すぐにカッとなることから「トンガリの正蔵」と呼ばれました。僕も何度「馬鹿野郎」と叱り飛ばされたかわかりません。破門も37回。でも、同じ数だけ許していただいた。師匠の根底には、思いやりとか柔らかさがありました。懐の深い人でしたね。損得を考えず、信念のままに生きました

今だから話せますが、僕は正蔵師匠の門下に入るまで師匠の落語を聴いたことがなかったんです。怪談噺の名手だということすら知りませんでした。ただ、寝込んでいた三木助師匠のもとに正蔵師匠がお見舞いにみえて、3万円を包んだポチ袋を「おかみさん、これ」と差し出されたんです。おかみさんが後で「これが一番ありがたいの」とつぶやいたのを聞いて、「人の心のわかる、いい師匠なんだな」​と印象に残っていました。

ですから、三木助師匠がお亡くなりになって次の入門先を聞かれた時に、落語界に入ったばかりで右も左もわからないまま、とっさに正蔵師匠のお名前が口をついて出たんです。つまり、僕が師匠を選んだ理由はただの直感でした。それでも、正蔵一門に弟子入りさせていただいたことは、人生最大の大当たりでした

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
うな茶です。小さい洒落たお茶碗に盛ったごはんにうなぎを載せて、もみのりをパラリ。そこにお醤油をかけて、熱いお茶を注いだのを最後に食べたいですね。うな茶、大好きなんです。

上野伊豆榮

お気に入りのうなぎ屋さんを木久扇さんに伺ったところ、間髪入れず名前が挙がったのが東京・上野の鰻割烹「伊豆榮」。本店は老舗寄席「鈴本演芸場」から徒歩2分の場所にあり、師匠の八代目林家正蔵さんのひいきの店だったことから木久扇さんも前座時代からよく出入りし、上階の座敷で師匠方が顔付け(寄席などで出演者の順番を決めること)をする光景が今も目に浮かぶと言います。砂糖を使わないサッパリしたたれが「伊豆榮」の蒲焼の特徴で、「あの味がちょうど僕に合いましてね」と木久扇さん。何とも言えない笑顔でした。

プロフィール

落語家/林家木久扇さん

【誕生日】1937年10月19日
【経歴】東京・日本橋生まれ。高校卒業後、食品会社、漫画家・清水崑の書生を経て1960年、三代目桂三木助に入門。翌年、八代目林家正蔵門下へ移り、林家木久蔵の名を授かる。真打ち昇進。2007年、林家木久扇に改名。1969年から2024年3月まで「笑点」のレギュラーメンバーを務めた。イラスト制作やラーメンのプロデュースも手がけ、著書も多数。

Information

『木久扇の昭和芸能史』
木久扇さんが見てきた昭和の芸人たちの思い出を、芸能史に詳しい林家たけ平氏がインタビューした『木久扇の昭和芸能史』(草思社)。東京育ちの生い立ちや芸人人生を縦軸に、木久扇さんに大きな影響を与えた落語家、コメディアン、俳優などの人となり、芸風などのエピソードが満載。昭和芸能史と呼ぶにふさわしい回想記となっている。
『木久扇の昭和芸能史』(草思社)
(取材・文/泉 彩子  写真/刑部 友康)