「身支度をしていた母」タレント・マッハ文朱さん【インタビュー前編】~日々摘花 第59回~

コラム
「身支度をしていた母」タレント・マッハ文朱さん【インタビュー前編】~日々摘花 第59回~
1972年に『スター誕生!』に出場し、その翌々年にはわずか15歳にして一躍女子プロレスラー界のアイドルに登りつめたマッハ文朱さん。人気絶頂の最中、2年8カ月で引退するも、その明るく朗らかなキャラクターで、女優・タレントとしてもお茶の間の人気者に。25歳で芸能活動を休業し、米国に留学。留学先で現在のご主人と出会い、33歳で結婚、二人の子どもにも恵まれます。

そんなマッハさんをデビュー時から支えてきたのは、29年前に63歳で急逝したお母さまとご姉妹。常にポジティブなマッハさんは、大切な人との“別れ”とどのように向き合ってこられたのでしょうか。前編ではお母さまとの思い出話を中心にお届けします。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

漢方、運動、芸術鑑賞…三姉妹で母の健康管理

――63歳でお亡くなりになられたお母さまとの「永遠の別れ」は、どのようなものだったのでしょうか。

マッハさん母は病弱で心臓が弱く、心臓発作を起こしたり、血圧が極端に上下したりして入院することが多くありました。父は私が10歳のときに他界し、母が女手ひとつで私たち三姉妹を育ててくれまして。姉とは5歳離れていたので、正確には母と姉が、私と妹を育ててくれたようなものですが、大黒柱はやはり母なので、母が倒れやしないか常に心配でした

小学生の頃は、別のクラスの先生が授業中に入ってきて「わたなべ」(マッハさんの本名)なんて呼ぶときは、たいてい母が救急車で運ばれたという連絡が学校に入ったときで。先生に「わたなべ」って呼ばれるたびに緊張が走る……そんな子ども時代を過ごしました。

母には長生きしてもらいたいというのが私たち三姉妹の目標で、姉は母のために漢方や自然食について独学で勉強し、健康面をサポートしていました。いまだに理解できないのですが、姉が40歳のときに、突然、中国語で書かれた分厚い漢方の本を読み、勉強を始めたのです。

――中国語で?

マッハさん:そうなんです。中国語なんて一度も習ったことがないのに(笑)。生まれつき第六感が冴えている不思議な人で、いきなり「私、自分の前世がなんだかわかった!」って言い出して。私は当時35歳でしたけれど、子どもの頃から何でも信じるタイプだったので、「前世は何だったの?」って違和感なく聞いてしまったんです(笑)。

姉いわく、すごく尖った山のてっぺんにある寺で少林寺拳法の修行している人たちの怪我人を診る中医だったと。もともと香港が好きで、ジャッキー・チェンやブルース・リーが出演する映画を好んで観ていたので、その影響があったのかもしれませんが、全部中国語で書かれた書物を読めてしまったのはいまでも不思議なんですよ。
左がマッハ文朱さんのお母さま、右はお姉さま
――急に降りてきた感じなのでしょうか。

マッハさん:そうだと思います。それで、姉は医食同源とばかりに食と漢方で母の身体を根本から健康にすることに注力し、は運動分野を担当することにして、母にジム通いを勧めました。最初は「私みたいな病弱な人間がジムなんて……」というので、「お母さん、絶対に面白いから。まずあのマシンで歩いてみよう」「次は自転車をやってみよう」と、私が習得したスポーツ理論を踏まえながら少しずつ慣れてもらうことにしたのです。

「お母さん、人間の体っていうのはね、強く速く動くよりもゆっくり動きながら、例えば隣の人と『今日暖かいわね』『寒いわね』って喋れる程度の速さで歩くだけでいいの。ゆっくり動くとこの栄養素を使い切ることができて、それから脂肪が燃えてくれるから、ゆっくり長くやるほうが効果あるのよ」なんて言いながら気持ちを楽にさせて。

当時エアロビクスが大人気だったので、一緒に受け始めていたらすごく楽しくなったようで、あるとき、「ふみちゃん、エアロビクスの靴紐って何色ぐらいあるのかな?」って聞いてきたんです。「7色ぐらいかな。たくさん出回っているわよ」と言うと、「全色買ってきてもらいたいの」と。先生や受講者のみなさんとお友達になったようで、ウェアに合わせて靴紐を選んでトータルコーディネートするんだと。最初はジムに消極的だった母が、いつの間にか自ら楽しんで積極的になってくれて嬉しかったですね。

一方、妹は美大出身ということもあり、一緒に絵画を見に行ったり、美味しいものを食べに行ったりして、母の心が豊かになるようサポートしていました。

母が救急搬送! ロックのカリスマが助っ人に

――三人でそれぞれ得意分野をいかしながら、お母さまをサポートされていたのですね。

マッハさん:長い間苦労してきた母が50歳を過ぎて心身ともに元気になって、これまで知らなかった世界を楽しんでもらえるようになり、嬉しかったですね。ようやく苦労が報われたというか。ただ、相変わらず血圧の昇降を繰り返していたので、私も心配でよく帰国していました。

母は亡くなる前に三度倒れたのですが、一度目に発作が起きて倒れたときは、薬ですぐにおさまったんです。二度目もそれで対応できたのですが、三度目は普段と様子が違ったので救急車を呼びました。ところが、その日はなかなか到着しなくて、姉が電話で確認したら家のすぐ近くまでは来ているんですけど、ゴールデンウィークで縦列駐車の車が邪魔をしていて、先に進めないと。それを聞いて、妹と猛ダッシュで表に出ていって何とかしようと思ったら……、意外な方が車をどかすように指示してくださったんです。
――どなたが助けてくださったんですか?

マッハさん:なんと、矢沢永吉さんがその場にいらっしゃったんです。そのときはマッハ文朱が救急車を呼んでいるということは認識されていなくて。たとえ誰であっても同じように行動されたということを考えると、すごい方ですよね。おかげで救急車も間に合い、その日は事なきを得ました​。少しでも長く母と過ごせたのは矢沢さんのおかげです。その後、矢沢さんがご家族でロサンゼルスにいらしたときにお電話いただきまして、心からの御礼をお伝えしました。

おしゃれな母の最期のガウン

マッハさん本当に一大事だったんです。にも関わらず、母は担架で運ばれるときに姉が用意したガウンを見て、「それじゃなくて、いちばん奥にある、私がいちばん好きなガウンを出してきてほしい」と言ったんです。手渡したのは日常着のガウンで、今日はそれじゃないって(笑)。母はおしゃれをするのがとても好きで、普段からお洋服も帽子もトータルコーディネートをしているような人だったので、母らしいと思いました。

――冷静だったのですね。

マッハさん:自分がたいへんな状況なのに、お気に入りのガウンがいいって笑ってしまいますよね。でも、それが最期になったので、本人は何かを悟っていたのかな、と今では思います。

救急車で運ばれて、いつものように応急処置をしていただいて、先生からは「もう大丈夫ですので、お帰りいただいていいですよ」と言われたのですが、直感が鋭い姉が「今回は今までと違う気がするので、2、3日様子見で検査入院をさせていただけませんか」と言って入院することになったんです

病室に移動し、室内で先生がカルテを書いているときに、母は寝ながらベッドの上で「おかげさまでだいぶ落ち着きました」と言いながら、のどが渇いたからと小さなボトルのお水を飲みほして、そのあとすぐにトイレに行きたいと言って起き上がろうとしたら、「あ、天井が回っている」というような感じのことを言って……そのまま亡くなりました。ちょうど病室には姉も妹もいたのですが、先生方も看護師さんもみんなで「今の今まで意識がはっきりしていたのにどうして……」と驚いたそうですよ。
――確かにそれは驚きますね。

マッハさん:本当にみんなびっくりしていまして。苦しまずにいきなりですからね。ただ、予兆は1週間前ぐらいからあったんですよ。背中の心臓の裏あたりが痛い痛いと言っていたので。それなのに、家の隅々まで掃除し始めたので、気にはなっていたものの止めはしなくて。片っ端から引き出しを開けて中のものを整理し直したり、衣類を引っ張りだしては洗濯して畳み直したり。妹にベンジンを買ってくるように頼んで帽子の収納箱を拭いて、帽子をすべて新しい箱に入れ直したり、洋服を掛けるカバーを買ってきて掛け直したり。

私はその頃はまだL.A.に住んでいたのですが、体と心の健康をテーマに日本で年に数回講演会を行っていまして、いつも白いハンカチを持参していたんです。母は、10枚以上あった白いハンカチすべてにアイロンをかけて、キレイに畳んで引き出しの中にしまってくれていて……それを見て号泣してしまいました

今思えば、それらは旅立つための身支度だったのかな、と。母らしい最期の遂げ方でした。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
私、ぽよぽよしい食べ物が好きなんです。くずきりとかタピオカとか。一時期タピオカが好きすぎて、私が亡くなったら棺桶の中をタピオカだらけにしてほしいっていっていたぐらい。そしたら、娘たちから「見た目的にそれはできない」って却下されました(笑)。くずきりなら大丈夫な気がするんですけど、どうでしょうか?
先日京都に行ったときに鍵善さんでくずきりをいただきまして、とてもおいしかったんですよ。よく行くのですが、本当においしいですよね。最後はくずきりをたらふく食べたいです。
画像提供:御菓子司 鍵善良房

御菓子司 鍵善良房(かぎぜんよしふさ)

京都祇園で300年以上続く老舗の和菓子店。一般客をはじめ、長きにわたり、茶人や僧侶、文人墨客、旦那衆、花街の女性たちなど、多くの人々に愛されてきた。鍵善の代名詞ともいえる人気のくずきりは、葛粉と水のみで作られ、葛粉は奈良吉野・大宇陀町の「森野吉野葛本舗」のものを使用。喉ごしのよさと程よいコシの強さで、日本人はもちろん、外国人観光客にも支持されている。

Infomation

渋谷のラジオ「渋谷いきいき倶楽部」に毎週木曜日(13:00〜)出演中。「渋谷区のすべてのシニアのみなさまを応援する」ラジオ番組で、曜日ごとに日替わりのテーマがある。マッハさんが担当するのは「カラダとココロの健康」。

プロフィール

女優・タレント/マッハ文朱さん

【誕生日】1959年3月3日
【経歴】
熊本県出身。13歳のときに『スター誕生!』(日本テレビ系)に出場し、決戦大会に進出。15歳のとき全日本女子プロレスに入門し、リングネーム「マッハ文朱」としてデビュー。モデル並みのスタイルとスター性で、女子プロレス始まって以来の人気スター選手に。WWWA世界シングル王座(第17代)、赤城マリ子とのタッグでWWWA世界タッグ王座(第61代)獲得するなど名実ともに活躍するも2年8ヶ月で引退。タレントに転向後は映画やドラマ、バラエティ、クイズ番組など多岐にわたり活躍した。25歳で休業し、ニューヨークに留学。留学中に知り合った台湾系アメリカ人男性と結婚し、二女に恵まれる。2013年にアメリカから日本に拠点を移し、芸能活動を再開。

マッハ文朱オフィシャルブログ
(取材・文/鈴木 啓子  写真/鈴木 慶子)
インタビュー後編の公開は、5月30日(金)です。お楽しみに。