「疎遠だった父の最期」精神科医・和田秀樹さん【インタビュー前編】~日々摘花 第58回~

コラム
「疎遠だった父の最期」精神科医・和田秀樹さん【インタビュー前編】~日々摘花 第58回~
人生の終わりをどう受け入れるのか――。ベストセラー作家であり、高齢者専門の精神科医として長年人の心に寄り添い続けてきた和田秀樹先生に、ご自身の経験を踏まえながら、大切な人との別れや喪失感の受け入れ方などについてお話を伺いました。医師であり、作家であり、映画監督でもある和田先生の“別れ”との向き合い方とは? 前編では、86歳でこの世を去ったお父様との思い出と別れを中心にお届けします。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

最期の7カ月、人工呼吸器につながれていた父

――86歳でお亡くなりになられたお父さまとの「永遠の別れ」は、どのようなものだったのでしょうか。

和田さん父はタバコの吸いすぎで長年肺気腫を患っていまして、家庭用の酸素ボンベをガラガラ引きながら晩年を過ごしていました。父と母は70歳を過ぎてから離婚し、父は大阪で、母は東京で一人暮らしをしていましたが、酸素ボンベが必要だったことを除けば、父は普通に元気でした
和田さん:ところがあるとき、肺炎か風邪がきっかけで体調を崩し、かかりつけの病院に行って検査をしたら、血中の酸素濃度が非常に低いことが判明したんです。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が流行したときに、「血中の酸素濃度が90%以下だと重症だ」なんて騒がれていましたけど、肺気腫の患者さんの場合は60%ぐらいが当たり前なんですよ。

そんな中、父は30%台にまで下がるほど悪化してしまって、結局入院することに。一時は持ち直したものの再び悪化し、病院から「呼吸状態がかなり悪いので、気管内挿管(※)していいですか?」と電話がかかってきまして、二つ返事で「お願いします」と伝えました。僕は東京、父は大阪と離れていたため、すぐに駆けることができませんでしたし、どうしても父の死に目に会いたかったから
※気管(内)挿管は、気道確保のひとつの手段で、上気道閉塞の改善、気道への誤嚥の予防、機械的人工呼吸を主な目的として実施される。
――最期、看取ることはできたのですか。

和田さん:残念ながら、  僕が駆けつけた時は息を引き取ったばかりで、最期には間に合いませんでした。でも、入院してから亡くなるまでの7カ月もの間、何度も会えましたし、心の準備もできていたので、きちんとお別れすることはできたと思っています。

ただ、あとから知ったことなのですが、挿管を許可すると、実は挿管だけでなく、気管切開をして人工呼吸器につなぐまでを許可したことになるそうで、僕は医者なのに、それを知らずに許可してしまっていたんですよ……。知っていたら許可しなかったかもしれない。結局、父は人工呼吸器につながれた状態になり、薬物で意識を落とされてしまうので、訪ねて行っても返事はほとんどなく、会話らしい会話ができなかった。そこが心残りですね

父に関していえば、大病して、最後に弱って亡くなる……という感じはなく、いつ訪ねて行っても呼吸器につながれてほとんど意識はなかったから、いつから死んでいるのかわからない状態でした。亡くなったときも、“死んだ”という実感はあまりわかなかったですね

気楽に自由に生きることが健康維持の秘訣

――お父様との「永遠の別れ」を経て、心境の変化は?

和田さん父が人工呼吸器をつけてからの7カ月間、いつ死ぬかわからない状況でしたので、宙ぶらりんな感覚とでもいいましょうか、妙な感じがしていました。それは、すごく悲しいとか、つらいとかっていう感情とは別物です。もちろん、人工呼吸器につながれた父の姿を見たときはショックでしたし、悲しかったですけど、そのあとは不思議な感じでしたね。

もともとお父さんっ子ではなかったですし、大学で上京してからはずっと父親と疎遠だったので、そのことも影響しているのかもしれません。大阪に帰っても、父に会うのは1、2年に1回ぐらいで。僕には弟がいるのですが、兄弟そろってそんな感じでした。父が母と離婚してひとり暮らしをしてからは、さらに疎遠になりましたし。

――つかぬことをお伺いしますが……離婚は反対されたのですか?

和田さん:いえ、しませんでしたよ(笑)。いろいろな本でも書かせていただいていますけど、歳を取ったら、周りの人に気を遣って人に合わせて生きていくのではなく、自分の希望通りに生きたほうが心身の健康にいいと考えています。だから、反対はしませんでしたね。気楽に自由に生きなよって

でも、こういう親子関係ってすごく珍しいことなのかと思っていたら、パラサイト・シングルという言葉を創られた家族社会学者の山田昌弘さんが興味深いことをおっしゃっていまして。日本は家族で介護をする、在宅で介護をする、最後まで看取ることが親孝行のように思われているけれど、就職や結婚で独立してから親の介護をするまでの間、いわゆる親子のコンタクトは世界でも最も少ない国のひとつだ、と。

子供が独立しても“親子は親子”という意識が、日本に比べてアメリカやヨーロッパなど海外のほうが強いんですよ。欧米では「今日はお母さんの誕生日だから仕事は休みでホームパーティ」なんてシーンがドラマや映画でよく出てきますよね? それが当たり前の環境。
和田さん:ところが日本では、例えば夫や彼氏がお母さんの誕生日を祝うとか、「お母さんどう? 元気にしている?」と頻繁に電話をしていたら、マザコンって言われかねない。ただ大事にしているだけなのに。僕と弟は、親子のコンタクトはとても少なかったように思っていたけれど、日本の統計で自分たちが例外ではなかったことに気づきました。

でもね、それでいいと思うんですよ。物理的な距離が離れていることは悪いことではない。もしそれで自分を責めている人がいたら、責める必要はない、とお伝えしたいです 。

若くして亡くなった人の死はリアルさが増す

――和田先生はご自身の著書やさまざまなメディアで、いつも「健康でいるには食べることが大事」とおっしゃっています。

和田さん本当に大事なことだと思っています。僕は長年精神科医として高齢者の医療に携わってきましたが、歳を取るにつれてだんだんと食が細くなっていく患者さんをたくさんみてきました。食べないと痩せ衰えていきますし、体力も免疫力も落ちてしまいますから、ご飯はしっかり食べたほうがいいです。
和田さん母は現在94歳で、2年前に高齢者住宅に入居しまして、ずっと元気だったんです。ところが、去年のお正月あたりに体調を崩してご飯を食べられなくなり、食べないから体力がなくなり、しまいには歩けなくなってしまって。後に胃炎が原因だとわかり、治療をして治ってからはしっかり食事をとるようになりました。でも、結局歩けるようにはならなかった。今は介護付きの有料老人ホームに入っていますが、食事をしっかりとるということがいかに大切なのかを思い知りました。
――母さまもお父さまも日本人の平均寿命(男性81.09年、女性87.14年/2023年厚生労働省発表)より長生きされていて素晴らしいですね。

和田さん:不謹慎かもしれないけれど、私の母は今94歳なのでこれから何年かのうちにおそらく死を迎えると思っています。そうした時に、ものすごくショックかといったら、それはないでしょうね、きっと。もちろん世の中には、自分が高齢者で、さらに高齢の親を看取ることがすごくショックな人もいると思うんですけど、一般的には、若くして亡くなった人のほうがショックが大きいし、「死」というものをリアルに突きつけられるし、ずっと覚えているような気がしますね。

これは難しい話ではあるんですけど、若くして死ぬというのは悲劇的なことでもあるわけですよ。若いと言えるかどうかはわかりませんが、西田敏行さんにしても、渥美清さんにしても、60代、70代で亡くなられて、平均寿命を考えると大往生とは言い難い。川島なお美さんは50代で亡くなられたので、一般的には若死に入ると思いますが、お三方とも悲しみが大きいぶん、死の記憶というのが人々の中にずっと残ると僕は思うんですよ。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
生まれてからこれまで食べた中で、もっとも美味しいと感じたのが白トリュフのソースのカルパッチョ。これを最後に食べたいですね。提供される季節が限られているので、食べたいと思ったときに食べられないのと、海外のお店でしか出会ったことがないので、遠征しないといけないのが難点(笑)。

僕はサンタモニカのイタリアンで食べたのだけど、白トリュフはひょっとしたら世界一高い鰹節なんじゃないかと思いましたね。白トリュフはそうでなくても高いのに、日本の料理人は料理の上に削ってかけるだけ。和食でも出汁が大事ですけど、やっぱりね、白トリュフも出汁にしたほうがずっと美味しい。まぁアミノ酸だからうまいと思うんでしょうけど(笑)。それにあわせて、ものすごく高いワインを飲みたいな。

Giorgio Baldi (ジョルジオバルディ)

米カリフォルニア州のサンタモニカにある有名イタリアン。世界で活躍するアーティストやハリウッド俳優など、著名なセレブ達も足しげく通う人気店で、アメリカで一番美味しいイタリアンと称されている。とりわけ、白トリュフを使用したメニューが好評を博しており、中でも「絶品!」と和田先生をうならせたのは「白トリュフソースのビーフカルパッチョ」。

プロフィール

精神科医/和田秀樹さん

【誕生日】1960年6月7日
【経歴】
1960年、大阪府生まれ。東京大学医学部卒業、同大学附属病院精神神経科、老人科、神経内科での研修、米国カール・メニンガー精神医学校の国際フェロー、高齢者専門の総合病院である浴風会病院の精神科などを経て、現在、川崎幸病院精神科顧問、一橋大学経済学部・東京医科歯科大学非常勤講師、和田秀樹こころと体のクリニック院長、立命館大学生命科学部特任教授を務める。
主な著書に『80歳の壁』『ぼけの壁』(幻冬舎新書)、『テレビの大罪』(新潮新書)、『受験は要領』(PHP文庫)、『大人のための勉強法』『老人性うつ』『老いの品格』(PHP新書)『70歳が老化の分かれ道』(詩想社新書)などがある。

Information

『どうせあの世にゃ持ってけないんだから』和田秀樹・著(SBクリエイティブ刊)
和田秀樹さんの新作エッセイは“老後のお金”がテーマ。日ごろから「高齢者の幸せはお金を使ってこそ」と著書や医療現場などで伝えている和田さん。ご自身の経験を基に高齢者がお金を使うことで得られるメリットを、「高齢者自身の幸福感」や「高齢者の健康に与える影響」などの観点から説いた一冊。
(取材・文/鈴木 啓子  写真/刑部 友康)