「スケートとの出会いは“運命”」プロフィギュアスケーター・安藤美姫さん【インタビュー前編】~日々摘花 第64回~

コラム
「スケートとの出会いは“運命”」プロフィギュアスケーター・安藤美姫さん【インタビュー前編】~日々摘花 第64回~
主要な国際大会で女子史上初の4回転サルコウを成功、世界選手権では2度優勝、冬季オリンピックに2大会連続出場を果たすなど、輝かしいキャリアを持つプロフィギュアスケーター・安藤美姫さん。引退後も指導者、振付家として活動する傍ら、アイスショーやTV、雑誌などに出演し、活躍の場を広げ続けています。
前編では、幼い頃に訪れたお父さまとの別れとスケートとの出会い、そしてこれまで家族について多くを語ってこなかった安藤美姫さんがなぜ今回『日々摘花』に登場してくれたのか、その理由についてうかがいました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

同じ境遇にいる人の心に寄り添いたい

――これまでご家族、特にお父さまについてはほとんど語られてこなかった安藤さんが、今回なぜ『日々摘花』の取材をお引き受けくださったのでしょうか。

安藤さん:もともとアスリートが私生活について、公の場で積極的に話す必要はないと思っています。ましてや、亡き父のことはなるべく話したくないと。

今でもその考えは変わりません。ただ、歳を重ねながら色々なことを経験していくにつれ、少しでも誰かの役に立てるのならやってみよう、挑戦してみようという思いが強くなってきたんです。

今回のテーマが“大切な人との別れ”ということで、私の経験をお話することで、同じ境遇にいる誰かの心に少しでも寄り添うことができたらと思い、お引き受けしました。
プロフィギュアスケーター/安藤美姫さん プロフィール
1987年12月18日生まれ、愛知県名古屋市出身。2002年のジュニアグランプリファイナルにおいて、国際スケート連盟公式大会で女子選手として史上初の4回転ジャンプ(サルコウ)を成功させ、注目を集める。04年世界ジュニア選手権優勝、07年、11年世界選手権優勝。冬季オリンピック2大会出場[2006年トリノオリンピック、2010年バンクーバーオリンピック5位入賞]。11年の四大陸選手権優勝のほか全日本フィギュアスケート選手権で3度の優勝を果たす。13年に現役引退後はプロスケーターとして国内外のアイスショーに出演するほか、振付師や解説者、指導者としても活躍中。

安藤さん:私は、10代の頃からフィギュアスケーターとして注目していただき、多くの人に応援され、支えられてきました。スケートをしていなければ出会えなかった人、経験できなかったこともありますが、当時はいい成績を残したいとか、有名になりたいというような思いはなくて、フィギュアスケートは習い事のひとつでした

なので競技とは別に普通の生活があって、パーソナルなことをあえて大勢の人に話す必要があるのだろうか、という疑問が常にありました。

18歳で出場した2006年トリノ・オリンピックの日本代表チームの記者会見でその思いは一層強くなりました。父のことを事前に調べてこられた記者の方がいて、突然質問されたんです。「お父さんを幼少期に亡くされているそうですが」「今回はお父さんのために滑りますか」みたいな内容で、それまで父のことは一度も公の場で話したことがなかったので、何で知ってるの?と驚いて思わず泣いてしまって……。

当時私はまだ高校生でしたし、初めての五輪の記者会見で多くのメディアが集まっていて、いつも以上に緊張していたこともあり、若干パニック状態に。今なら、その記者の方が感動的なエピソードを引き出すために質問されたのは「仕事だから仕方ない」と理解できなくもないのですが、そのときは、私の人生にいきなり土足で踏み込まれた気持ちになりました。

――五輪代表の記者会見で、競技と関係のない質問をされるとは思わないですよね。

安藤さん:はい。なので、何も答えられないまま終わってしまいました。

もともとパーソナルな話は人にするものではないという考えがあったうえに、突然知らない人から質問されて、父のことについて一切語らなくなったのはもちろん、親しい人以外には心を閉ざしてしまったんです。

そんな私が徐々に変わっていったきっかけのひとつが、トリノ五輪の翌シーズンに師事した、元アイスダンスの選手で長野五輪にも出場経験のあるロシア人コーチ、ニコライ・モロゾフ先生との出会いでした。ニコライ先生もお父さまを亡くされていたので、私の気持ちを理解しながら指導してくださいました。
――ニコライ先生に師事されてから、より表現の幅が広がり、いきいきと滑られている印象を受けました。

安藤さん:私がジュニアからシニアに移行した頃の日本は、フィギュアスケートというと「高難度のジャンプ」の報道ばかりで、おそらく読者の皆さんにも「ジャンプの安藤美姫」というイメージがあったかと思います。

私もジャンプが大事だと思っていたのですが、ニコライ先生が最初に「そうじゃないんだよ」と。「フィギュアスケートは、最初にコンパルソリー(決められた図形に沿って滑り、正確さなどを競う種目で1991年に廃止)から始まったもので、エッジ(スケート靴の刃の氷に接する部分)のアウトとインを美しく使い分けて滑ることが基本」と根本から指導していただきました。

また、なぜフィギュアスケートには音楽があるのか、その音楽をどのように理解して表現するのか、自分らしく表現するとはどういうことなのか、誰かの真似ではなく“自分らしさ”を持ち続けることがいかに美しくて大切なことなのか。フィギュアスケートに必要なたくさんのことを教えていただき、再びフィギュアスケートを好きになりはじめました

家族時間を何より大事にしていた父

――お父さまとのお別れはどのようなものだったのでしょうか。

安藤さん:朝、普通に「行ってきます」って家を出て行って、職場に向かう途中で交通事故に遭い、亡くなりました。私が8歳のときのことです。小学校の授業中に知らせを受けて、病院に駆け付けたぐらいは覚えているんですけど、実は当時の記憶はほとんど残っていないんです。なぜ記憶がないのか、自分でもよくわからないんですけど、本当になくて。

――ショックが大きすぎたのでしょうか。

安藤さん:それすら覚えていないんです。ただ、病院に向かう途中、永遠のお別れになるかもしれないということをなんとなく理解して、受け入れていたような感覚も残っているといえば残っています。

――お父さまはどのような方だったのですか。

安藤さん父は家族の時間をすごく大事にする人でした。うちは、両親と弟、祖父母、それに母の妹である叔母と、7人の大家族だったんですけど、夕食は必ず家族そろって食べていたんですよ。なので、父は仕事を終えると、毎日寄り道をせずに帰宅していました。また、夏休みや冬休みになると、しょっちゅう家族で旅行や近場に遊びに行っていました。

とにかく家族と過ごす時間を優先してくれていた父なので、もし生きていたらフィギュアスケートは選べなかったと思います。
――フィギュアスケートは、国際試合に出るようなレベルになると練習量が多く生活も不規則になると聞きます。

安藤さんフィギュアスケートほど家族の時間がバラバラになるスポーツは、なかなかない気がしますね。8歳で習い事のひとつとしてスケートをはじめて、9歳で選手の育成コースに入ってからは毎日スケートリンクに行くようになって、そのまま試合に出るようになり、アメリカに拠点を移し……弟と一緒に食卓を囲んだのはいつだろう? っていうくらい家族と食事をしていませんでしたね。そのことに気づいたのが20歳の頃だったと思います。

――20歳になるまで⁉

安藤さん:はい(笑)。高校の卒業式もオリンピックで行けなかったし、卒業旅行も行けなかったんです。体育祭も文化祭も、いわゆる学校行事というものにほとんど出たことがありません

フィギュアスケートはリンクに行かないと練習できないスポーツなので、リンクにいる時間が長いんです。もちろん、筋トレをしたり、走ったりと陸上でトレーニングできることもありますけど、やっぱり滑る練習が中心なので。

他のスポーツも朝から晩まで練習漬けで、ご家族と過ごす時間が少ない方もいらっしゃると思うんですけど、いろんなアスリートの方のお話を伺うと、フィギュアスケートはちょっと特殊だと思います。練習が終わるとたいてい22時は過ぎていましたから、家族と過ごす時間がない。バンクーバー五輪が終わるまで、一気に走り続けた感じです

家族団欒を大事にしていた父でしたから、生きていたらたぶんスケートはやってなかったと思います。でも……家族を大事にする父だからこそ、もしかしたら全力で応援してくれたのかもしれない、と思うこともあります。

最愛の父を失い、最愛のスケートに出会う

――お父さまが生きていらしたら、フィギュアスケーターの安藤美姫さんが世に出てこなかったかと思うと複雑です。

安藤さん:フィギュアスケートに初めからすごい思い入れがあったわけでも、小学生時代の指導者に特別な才能を見出された訳でもありませんでした。愛知県特有なのか当時の流行なのか分かりませんが、周りの友人たちもたくさん習い事をしていて、私も、ピアノ、油絵、バレエ、書道などのお教室に通っていました。たまたま、その習い事のひとつにフィギュアスケートがありました。お友達に誘われて、週に1回、リンクに遊びに行く感じで始めたんです。

スケートリンクが身近な愛知県では、小さな女の子が始めやすい、よくある普通の習い事でした。

ただ父が亡くなったときとフィギュアスケートに出会えたタイミングが一緒だったので、これも運命だったんじゃないかなと思っています。だから、大切な人との別れは、悲しいだけではなくて、何かしら意味があるのだろうなって、いつも思うんです。

一方で、当たり前の日常が当たり前ではないということも日々意識するようにしています。自分が成人するまで両親や兄弟や祖父母がいるのは当たり前だと思っている人って、想像以上に多いと思うんです。思春期を迎えると、「親の言うことはめんどくさい」とか、「お父さんの洗濯物と一緒に洗いたくない」なんて言う人の話を聞くたびに、それってすごく贅沢なことなんだよって言いたいです。
――普通に生活していると気づけないものですよね。

安藤さん:そうだと思います。もしこのインタビュー記事を読んでくださった方の中に、そういう人がいるのなら、今からでも贅沢なことに気づいていただけたらいいですね。思春期の方は少ないかもしれませんけど(笑)、私からすれば、親に甘えられるのは本当に羨ましいことです

ただ、私は、最愛の人がいなくなってしまったけれど、最愛のものに出会えました。大事なものを失ったけれど、スケートに出会えて人生が大きく変わった。悲しんでいるだけでは何も進まない、前を向いて生きていれば必ず道は拓けるんだっていうことをすごく実感しています。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
今は“最期に食べたいもの”が思い浮かびません。実際に死の間際にならないと、何を食べたいのか想像すらつかないです。今これを食べたいと思っていても、最期のときは違うと思うんです。最期をどう迎えるかにもよるとも思うので。
それと、私は死ぬ直前に「これを食べたい」と思う余裕すらない気がしています。中には、ご病気で「これを食べたい!」といって、最期まで食への意欲をもちながら亡くなる方もいるかもしれませんが、私は結構現実的なタイプなので(笑)、その時になってみないとわ分からない、というのがお答えです。

「さいごの晩餐」ベスト5

過去63回の「日々摘花」インタビュイーの皆さんが、人生の最後に食べたいと発言したものを大発表!
1位「おにぎり」8票、2位「白米・お味噌汁」7票、4位「煮物」4票、5位「お酒・鰻・漬物・パン・かけご飯(生卵、きな粉など)」各3票
日本人のソウルフードのおにぎりや白いご飯、お味噌汁が上位にランクイン。著名人の皆さんも最後の最後は、プロの豪華な料理よりもいつもの朝食や思い出に残る母の味を選びたい人が多い結果になりました。
(取材・文/鈴木 啓子  写真/鈴木 慶子)
インタビュー後編の公開は、10月31日(金)です。お楽しみに。