「父の言葉通り、両親の死に目に会えずとも」タレント/司会者・中山秀征さん【インタビュー前編】~日々摘花 第62回~
コラム

“ヒデちゃん”の愛称で多くの人に親しまれているタレント・司会者の中山秀征さん(58歳)。高校3年のときにお笑いコンビ『ABブラザーズ』としてデビューすると、アイドル並みのルックスと軽快なトークで、女子中高生を中心に瞬く間に人気者に。
今年で芸能生活40周年を迎えた中山さんがずっと第一線で走り続けてこられた理由は、「両親の支えが大きかったから」。しかし、9年前にお母さまが77歳、その翌年にお父さまが88歳でこの世を去りました。前編では、“ヒデちゃん”を支えたご両親との思い出と別れについて伺います。
今年で芸能生活40周年を迎えた中山さんがずっと第一線で走り続けてこられた理由は、「両親の支えが大きかったから」。しかし、9年前にお母さまが77歳、その翌年にお父さまが88歳でこの世を去りました。前編では、“ヒデちゃん”を支えたご両親との思い出と別れについて伺います。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。
宿借り、栄養失調……諦めなかった夢
――わずか15歳にして群馬から上京されました。芸能界に入りたいと思われたのはいつ頃ですか?
中山さん:芸能界への憧れを抱いたのは5歳ぐらいだったかな。両親が遊園地に連れて行ってくれて、フィンガー5のショーを観たんです。すごくキラキラしていてかっこよくて、自分もステージに立つ側になってみたいと思うようになりました。
中山さん:芸能界への憧れを抱いたのは5歳ぐらいだったかな。両親が遊園地に連れて行ってくれて、フィンガー5のショーを観たんです。すごくキラキラしていてかっこよくて、自分もステージに立つ側になってみたいと思うようになりました。
タレント・司会者/中山秀征さん プロフィール
1967年7月31日生まれ、群馬県藤岡市出身。84年、渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)主催の『第二の吉川晃司オーディション』に16歳で合格。85年にお笑いコンビ「ABブラザーズ」を結成。コンビ活動の傍らピンでもドラマ『静かなるドン』や映画に主演し、俳優としても活躍。その後、『DAISUKI!』、『THE夜もヒッパレ』、『ウチくる⁉』、『シューイチ』などに数多く出演し、タレント・MCとして不動の人気を得る。 『第二回中山秀征書道展』が8月19日(火)~31日(日)、東京都中央区の銀座鳩居堂にて開催中。
1967年7月31日生まれ、群馬県藤岡市出身。84年、渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)主催の『第二の吉川晃司オーディション』に16歳で合格。85年にお笑いコンビ「ABブラザーズ」を結成。コンビ活動の傍らピンでもドラマ『静かなるドン』や映画に主演し、俳優としても活躍。その後、『DAISUKI!』、『THE夜もヒッパレ』、『ウチくる⁉』、『シューイチ』などに数多く出演し、タレント・MCとして不動の人気を得る。 『第二回中山秀征書道展』が8月19日(火)~31日(日)、東京都中央区の銀座鳩居堂にて開催中。
中山さん:小学生になると人前でよく歌うようになり、それが楽しくて、ますます芸能界に入りたいという思いが強まりました。当時、父が縫製と大手食品メーカーの商品を扱う工場を営んでいまして、従業員の方が30名ほどいたんですけど、3時のお茶休憩になるとおばちゃんたちから「ヒデちゃん、歌って~」なんて言われて。殿さまキングスやフィンガー5、石原裕次郎さんなど、当時の流行歌や歌謡曲、演歌を披露していたんです。
殿さまキングス「なみだの操」は歌詞の意味もわからずに、“あなたのために守り通した女のみさお~♪”なんて歌うと、おばちゃんたちが「いやだ、ヒデちゃんったら!」って喜んでくれて。さらに、あたかも芸能人のように握手して回ったりしてね(笑)。みんなが笑ったり喜んでくれたりしたのがすごく嬉しかったんですよ。
――子どもの頃からサービス精神旺盛だったのですね。
中山さん:喜んでもらいたかったので、自分が好きなアニメソングは封印して、どの曲がウケるのかを常に考えていましたね。
中学1年のときに東京の児童劇団に入り、すぐに当時の人気テレビドラマ番組、火曜サスペンス劇場「校内暴力殺人事件━狙われた女教師」に出演することができたんです。でも、その後はなかなかチャンスが巡ってこなかった。オーディションを受けるにしても、「今から(東京)来られる?」って言われて、住んでいた群馬県藤岡市から東京まで片道3時間かかったので、そのことを伝えると「じゃあいいや」って。そういうことが何回も続いて、単純に「東京に行きさえすればチャンスが増える」と思ったんです。オーディションを受けさえすれば受かる、受かれば俺はスターになれる―そんな単純な構想が自分の中でできあがっていて(笑)、両親に東京の高校に行きたいとお願いしました。
殿さまキングス「なみだの操」は歌詞の意味もわからずに、“あなたのために守り通した女のみさお~♪”なんて歌うと、おばちゃんたちが「いやだ、ヒデちゃんったら!」って喜んでくれて。さらに、あたかも芸能人のように握手して回ったりしてね(笑)。みんなが笑ったり喜んでくれたりしたのがすごく嬉しかったんですよ。
――子どもの頃からサービス精神旺盛だったのですね。
中山さん:喜んでもらいたかったので、自分が好きなアニメソングは封印して、どの曲がウケるのかを常に考えていましたね。
中学1年のときに東京の児童劇団に入り、すぐに当時の人気テレビドラマ番組、火曜サスペンス劇場「校内暴力殺人事件━狙われた女教師」に出演することができたんです。でも、その後はなかなかチャンスが巡ってこなかった。オーディションを受けるにしても、「今から(東京)来られる?」って言われて、住んでいた群馬県藤岡市から東京まで片道3時間かかったので、そのことを伝えると「じゃあいいや」って。そういうことが何回も続いて、単純に「東京に行きさえすればチャンスが増える」と思ったんです。オーディションを受けさえすれば受かる、受かれば俺はスターになれる―そんな単純な構想が自分の中でできあがっていて(笑)、両親に東京の高校に行きたいとお願いしました。
――ご両親は反対しませんでしたか?
中山さん:しなかったんです。15歳でよく送り出してくれましたよね。自分の子どもたちを見ていると15歳で家を出て行くなんて想像できませんから。自分なりに、群馬にいるとチャンスが少ないんだ! だから今すぐ東京に行きたいんだ! といって一生懸命アピールしたので、僕の熱意に押し切られた部分はあったと思います。
とはいっても、ひとり暮らしをするわけにはいかないので、母が東京に住んでいる学生時代の友だち数人に電話をして、神奈川県川崎市のほうに僕の預かり先を見つけてくれたんです。中には何十年ぶりに連絡したという方もいたそうで、あの母の行動がなかったら今の自分はいないかもしれません。
中山さん:しなかったんです。15歳でよく送り出してくれましたよね。自分の子どもたちを見ていると15歳で家を出て行くなんて想像できませんから。自分なりに、群馬にいるとチャンスが少ないんだ! だから今すぐ東京に行きたいんだ! といって一生懸命アピールしたので、僕の熱意に押し切られた部分はあったと思います。
とはいっても、ひとり暮らしをするわけにはいかないので、母が東京に住んでいる学生時代の友だち数人に電話をして、神奈川県川崎市のほうに僕の預かり先を見つけてくれたんです。中には何十年ぶりに連絡したという方もいたそうで、あの母の行動がなかったら今の自分はいないかもしれません。
中山さん:川崎のお家は元々入試までの約束だったらしくて、高校入学後も少しは置いてもらえたんですけど、徐々に居づらくなり友人宅を転々とすることに。見かねた担任の先生が学校に内緒で同居させてくれたんです。当時先生は独身でひとり暮らし、朝は早く、夜は遅かったので、ほとんど顔を合わせることもなく、食事も別々で互いに干渉しない生活を送っていました。
ところが、ある日僕が栄養失調になっちゃって。オーディションを受けても落ち続けていたので「働かざる者、食うべからず」じゃないけど、食べるべきじゃないだろうと自分で暗示をかけていたところがあって。両親は仕送りをしてくれていましたし、野菜やお米なども送ってくれていたんですけど、料理もろくにできないから1日1食ラーメンだけとかで栄養が足りなかったみたいです。お医者さんにも1980年代にもなって、今どき珍しいなんて言われましたね(笑)。でもこんなことで夢を諦めるつもりは少しもありませんでした。
ところが、ある日僕が栄養失調になっちゃって。オーディションを受けても落ち続けていたので「働かざる者、食うべからず」じゃないけど、食べるべきじゃないだろうと自分で暗示をかけていたところがあって。両親は仕送りをしてくれていましたし、野菜やお米なども送ってくれていたんですけど、料理もろくにできないから1日1食ラーメンだけとかで栄養が足りなかったみたいです。お医者さんにも1980年代にもなって、今どき珍しいなんて言われましたね(笑)。でもこんなことで夢を諦めるつもりは少しもありませんでした。
父も、母も、僕の生放送中に旅立った
――群馬に帰ろうとは思わなかったのですか?
中山さん:思わなくはなかったですけど、自分で覚悟を決めて出てきていますから。両親にはうまくいっているようなことを言って、弱音は吐きませんでした。両親は「帰って来てもいいんだぞ」って言ってくれましたけど、いや大丈夫だと。何も問題ないんだと。電話口で親の声を聞いたときに涙が出ていても、悟られないようにしていました。
栄養失調の件があってからは、このままではいかんと一念発起。先生とは「食事はちゃんととろう」ということになり、朝から白米を炊いて食べるようになりました。仕事も事務所に入ったほうが有利だと考えて、芸能事務所のオーデションを受け、渡辺プロダクションに決まりました。上京してからちょうど1年、高校2年の2月のことです。
――その1年後の1985年、お笑いコンビ「ABブラザーズ」でデビューされて瞬く間に人気者になりましたね。
中山さん:小堺一機さんのトークバラエティ番組『ライオンのいただきます』で、レギュラーのアシスタントとしてデビューさせていただいたことが大きかったと思います。平日お昼の生放送で、お茶の間の皆さんに知っていただけましたから。
そこから、念願だった俳優のお仕事として、ドラマや映画で主演をやらせていただく機会にも恵まれましたし、CDも出させていただきました。また、『DAISUKI!』や『ウチくる⁉』などのロケ中心のバラエティ番組のほか、『THE夜もヒッパレ』という音楽番組、14年続いている情報番組『シューイチ』でもMCを担当して……、いろいろな人のおかげで、今年でデビュー40年を迎えることができました。
中山さん:思わなくはなかったですけど、自分で覚悟を決めて出てきていますから。両親にはうまくいっているようなことを言って、弱音は吐きませんでした。両親は「帰って来てもいいんだぞ」って言ってくれましたけど、いや大丈夫だと。何も問題ないんだと。電話口で親の声を聞いたときに涙が出ていても、悟られないようにしていました。
栄養失調の件があってからは、このままではいかんと一念発起。先生とは「食事はちゃんととろう」ということになり、朝から白米を炊いて食べるようになりました。仕事も事務所に入ったほうが有利だと考えて、芸能事務所のオーデションを受け、渡辺プロダクションに決まりました。上京してからちょうど1年、高校2年の2月のことです。
――その1年後の1985年、お笑いコンビ「ABブラザーズ」でデビューされて瞬く間に人気者になりましたね。
中山さん:小堺一機さんのトークバラエティ番組『ライオンのいただきます』で、レギュラーのアシスタントとしてデビューさせていただいたことが大きかったと思います。平日お昼の生放送で、お茶の間の皆さんに知っていただけましたから。
そこから、念願だった俳優のお仕事として、ドラマや映画で主演をやらせていただく機会にも恵まれましたし、CDも出させていただきました。また、『DAISUKI!』や『ウチくる⁉』などのロケ中心のバラエティ番組のほか、『THE夜もヒッパレ』という音楽番組、14年続いている情報番組『シューイチ』でもMCを担当して……、いろいろな人のおかげで、今年でデビュー40年を迎えることができました。
――芸能生活が順風満帆の中、2016年にお母さまが77歳で他界されました。
中山さん:母が亡くなったのが8月だったのですが、そのあとを追うように半年後には父が亡くなりました。僕がちょうど50歳のときです。
15歳で東京に出てきてしまったので、両親には寂しい思いをさせたんじゃないかと思いますね。自分にも子どもができて、初めてわかったことと言いますか。ありがたいことに、デビューしてからずっと忙しかったので、親元を離れて約30年のあいだで帰省できたのがお盆やお正月くらいだったんです。日帰りで行来できる距離なのに。
群馬の実家に戻ることが増えたのは、母の肝内胆管がんが2014年に発覚したからです。がんの標準治療は群馬の病院で行なうことにしたのですが、いろいろ調べたり知り合いの医師に相談したりして、「サイバーナイフ治療」という放射線治療が有効そうだということになり、都内の病院に通院することに。母を送迎するために藤岡と東京を頻繁に行き来しまして、このときがいちばん群馬に多く帰りました。
治療は順調だったんですけど、脳の血管に異常があったようで、群馬にいるときに容体が急変し、そのまま息を引き取りました。『シューイチ』の本番中のことでした。放送後に兄弟から電話があったと知らされましてね。実は父が亡くなったのも同番組の本番が始まる直前だったんですよ。
――ご両親ともに生放送中だったのですね。
中山さん:二人とも日曜日なんて、なんだかうちの親らしいなって思いましたね。父からね、ずっと言われていたんです、「親の死に目に会えないぐらいがいい」って。親の死に目に会えるようなら暇っていうことだから、死に目に会えない忙しい人になっていなさい、と。たぶん事前に知らされていたら、僕はなんとしても駆け付けたと思うんです。両親とも察したのかな、僕が絶対行けない、危篤なのを知ることすらできない時間に亡くなっているんですよね。
母の闘病と並行して父も80歳を超えてましたから持病があってもおかしくはなく、亡くなる数年前に胃がんを患い、いったん寛解したと思ったら、今度は白血病だと……。しばらくは病状が安定していたので普通に生活していたのですが、母が他界したあと2016年9月に胃がんが再発しまして。
白血病を患っているから胃がんの手術は難しいと群馬県内の病院で言われてしまい、諦めきれずにいろいろあたって東京の大学病院で手術が可能だということで転院しました。10月にはなんとか手術が成功して、術後の経過も悪くはなく、翌年のお正月には群馬の実家でお酒を飲み交わしたほど元気でね。ひょっとしたら気を遣わせないように我慢していただけなのかもしれないけれど、元気そうだったんです。良くなったと安心していた矢先に容体が急変し、1月末に亡くなりました。
母も亡くなる直前まで普通に歩いて、普通にご飯を食べて。寝たきりとかにはならずにね。普段となんら変わらない生活をしていましたから、僕にとって両親の死は突然の別れでした。
中山さん:母が亡くなったのが8月だったのですが、そのあとを追うように半年後には父が亡くなりました。僕がちょうど50歳のときです。
15歳で東京に出てきてしまったので、両親には寂しい思いをさせたんじゃないかと思いますね。自分にも子どもができて、初めてわかったことと言いますか。ありがたいことに、デビューしてからずっと忙しかったので、親元を離れて約30年のあいだで帰省できたのがお盆やお正月くらいだったんです。日帰りで行来できる距離なのに。
群馬の実家に戻ることが増えたのは、母の肝内胆管がんが2014年に発覚したからです。がんの標準治療は群馬の病院で行なうことにしたのですが、いろいろ調べたり知り合いの医師に相談したりして、「サイバーナイフ治療」という放射線治療が有効そうだということになり、都内の病院に通院することに。母を送迎するために藤岡と東京を頻繁に行き来しまして、このときがいちばん群馬に多く帰りました。
治療は順調だったんですけど、脳の血管に異常があったようで、群馬にいるときに容体が急変し、そのまま息を引き取りました。『シューイチ』の本番中のことでした。放送後に兄弟から電話があったと知らされましてね。実は父が亡くなったのも同番組の本番が始まる直前だったんですよ。
――ご両親ともに生放送中だったのですね。
中山さん:二人とも日曜日なんて、なんだかうちの親らしいなって思いましたね。父からね、ずっと言われていたんです、「親の死に目に会えないぐらいがいい」って。親の死に目に会えるようなら暇っていうことだから、死に目に会えない忙しい人になっていなさい、と。たぶん事前に知らされていたら、僕はなんとしても駆け付けたと思うんです。両親とも察したのかな、僕が絶対行けない、危篤なのを知ることすらできない時間に亡くなっているんですよね。
母の闘病と並行して父も80歳を超えてましたから持病があってもおかしくはなく、亡くなる数年前に胃がんを患い、いったん寛解したと思ったら、今度は白血病だと……。しばらくは病状が安定していたので普通に生活していたのですが、母が他界したあと2016年9月に胃がんが再発しまして。
白血病を患っているから胃がんの手術は難しいと群馬県内の病院で言われてしまい、諦めきれずにいろいろあたって東京の大学病院で手術が可能だということで転院しました。10月にはなんとか手術が成功して、術後の経過も悪くはなく、翌年のお正月には群馬の実家でお酒を飲み交わしたほど元気でね。ひょっとしたら気を遣わせないように我慢していただけなのかもしれないけれど、元気そうだったんです。良くなったと安心していた矢先に容体が急変し、1月末に亡くなりました。
母も亡くなる直前まで普通に歩いて、普通にご飯を食べて。寝たきりとかにはならずにね。普段となんら変わらない生活をしていましたから、僕にとって両親の死は突然の別れでした。
後悔と満足が交互に押し寄せる毎日
――ご両親とのお別れについて、いま思うことはありますか?
中山さん:もっともっとやってあげられたことがあったんじゃないかって思います。頻繁に人間ドックを勧めておけばよかったとか、病院や治療は違う選択もあったんじゃないかとか。田舎の人って健康診断やりたがらないんですよ。何かあっても近くの病院で安心してて、よっぽどになってから初めて大きな病院にかかるくらい。だからこそ、もっと実家に帰っておくべきだったんじゃないかって。
何がベストな選択だったのかは、今もわからないから難しい。老衰で自然に亡くなることができれば良いのかもしれないけれど、高齢でも病気があるとそう割り切れるものじゃなくて。病気も含めて寿命だとも思う反面、自分としてはまだできたことがあるんじゃないかなって。
――残される側の永遠の課題かもしれませんね。
中山さん:もう後悔しかないですよ、はっきり言ってね。自分なりにやれることはやったとしても、ベストな選択だったとは思っても、後悔はつきものです。
ただ後悔の質といいますか、悔しく思う内容も時間を経て変わってきてはいるんです。日によっては、それなりに母にも父にもできることをしたから、「よくやってくれたよ」って言ってくれている声が聞こえたりするんですよ。でも、そのあとにまた自分にはもっとできたことがあるんじゃないか、っていう思いが押し寄せてくる。いまだに、もっとああすればの後悔と、いやあの時は喜んでくれていたのかも、のくり返しです。
中山さん:もっともっとやってあげられたことがあったんじゃないかって思います。頻繁に人間ドックを勧めておけばよかったとか、病院や治療は違う選択もあったんじゃないかとか。田舎の人って健康診断やりたがらないんですよ。何かあっても近くの病院で安心してて、よっぽどになってから初めて大きな病院にかかるくらい。だからこそ、もっと実家に帰っておくべきだったんじゃないかって。
何がベストな選択だったのかは、今もわからないから難しい。老衰で自然に亡くなることができれば良いのかもしれないけれど、高齢でも病気があるとそう割り切れるものじゃなくて。病気も含めて寿命だとも思う反面、自分としてはまだできたことがあるんじゃないかなって。
――残される側の永遠の課題かもしれませんね。
中山さん:もう後悔しかないですよ、はっきり言ってね。自分なりにやれることはやったとしても、ベストな選択だったとは思っても、後悔はつきものです。
ただ後悔の質といいますか、悔しく思う内容も時間を経て変わってきてはいるんです。日によっては、それなりに母にも父にもできることをしたから、「よくやってくれたよ」って言ってくれている声が聞こえたりするんですよ。でも、そのあとにまた自分にはもっとできたことがあるんじゃないか、っていう思いが押し寄せてくる。いまだに、もっとああすればの後悔と、いやあの時は喜んでくれていたのかも、のくり返しです。
残された側は、それを受け入れて生きていくことが大切なんじゃないかと思います。これからは、自分が両親から受けた愛情を、後悔しないように妻や子どもたちにもっと注いでいけたらと。
僕は反抗期の時期に家にいなくて、反抗しないまま親元を離れてしまったんでね。その分社会に反抗してたって言うか。自分に子どもができて、息子が4人もいるんですけど、彼らをみてると反抗期って成長段階のひとつだってわかる。ふつうの親なら嫌に思う反抗期すら親という経験させてくれて、息子たちを本当にかわいいと思います。だから時間があれば息子たちの習い事の送り迎えもするし、妻とも記念日を祝ったり外食したり、家族がとにかく大好き。あ、子どもたちの反抗期を乗り越えられたのは、完全に妻おかげですけど(笑)。
両親との別れを通して、家族と過ごすかけがえのない時間を大切にしたいと、より一層強く思うようになりました。
僕は反抗期の時期に家にいなくて、反抗しないまま親元を離れてしまったんでね。その分社会に反抗してたって言うか。自分に子どもができて、息子が4人もいるんですけど、彼らをみてると反抗期って成長段階のひとつだってわかる。ふつうの親なら嫌に思う反抗期すら親という経験させてくれて、息子たちを本当にかわいいと思います。だから時間があれば息子たちの習い事の送り迎えもするし、妻とも記念日を祝ったり外食したり、家族がとにかく大好き。あ、子どもたちの反抗期を乗り越えられたのは、完全に妻おかげですけど(笑)。
両親との別れを通して、家族と過ごすかけがえのない時間を大切にしたいと、より一層強く思うようになりました。
~EPISODE:さいごの晩餐~
「最後の食事」には何を食べたいですか?
納豆。銘柄にこだわりはなく、醤油だけを入れて食べるのが好きですね。健康に良いからと、幼少期から食べ続けてきて、今では毎朝のルーティーンになっています。だから、最期を迎えるときも、普段通りの朝食がいいかな。
おかめ納豆 極小粒ミニ3
1980年代に発売されたロングセラー商品「おかめ納豆」。製造元のタカノフーズは、納豆の名産地・茨城県に本社を構える納豆業界の最大手で、2023年に創業90年を迎えた老舗。“安全でおいしい、食品づくり”をモットーに、こだわり抜いた大豆を使用し、しっかり発酵させることで糸と旨味を引き出した味わいが人気を博している。
Information
ご著書『気くばりのススメ 人間関係の達人たちから学んだ小さな習慣』(すばる舎)
長年お茶の間で愛され続けてきた中山秀征さんが“気くばり”を起点に、人間関係の達人たちから学び得たコミュニケーション技術&習慣を余すところなく詰め込んだ一冊。「話し方」「聞き方」「初対面」「雑談」「日常会話」「スピーチ」「人付き合い」など、さまざまな観点から、愛され信頼される人間になるための秘密と秘訣がわかる。
長年お茶の間で愛され続けてきた中山秀征さんが“気くばり”を起点に、人間関係の達人たちから学び得たコミュニケーション技術&習慣を余すところなく詰め込んだ一冊。「話し方」「聞き方」「初対面」「雑談」「日常会話」「スピーチ」「人付き合い」など、さまざまな観点から、愛され信頼される人間になるための秘密と秘訣がわかる。
(取材・文/鈴木 啓子 写真/鈴木 慶子)
インタビュー後編の公開は、8月29日(金)です。お楽しみに。