「駅や空港から送り続けた、母への土産」北原照久さん【インタビュー前編】~日々摘花 第26回~

コラム
「駅や空港から送り続けた、母への土産」北原照久さん【インタビュー前編】~日々摘花 第26回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第26回のゲストは、おもちゃコレクターの北原照久さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京系列)の鑑定士としておなじみの北原さん。まだおもちゃのコレクションがマイナーだった1986年に横浜・山手に「ブリキのおもちゃ博物館」を開館し、現在は全国5カ所で常設展示の博物館などを経営する事業家でもあります。前編では、どんな時も北原さんを応援してくれたお母様との思い出と別れについてうかがいました。

義務教育を退学になった僕に、母がくれた言葉

−−これまで経験された亡くなった方との「別れ」の中で、とりわけ心に残っているのは、どなたとの別れでしょうか。

北原さん:どの方との別れも忘れられませんが、ひとりだけ挙げるなら、母です。僕の実家は東京・京橋でミルクホールを営んでいましたが、空襲で焼け、戦後の焼け野原でスキー専門店と喫茶店を始めました。末っ子の僕が生まれたのは、そんな時期。母は店の手伝いをしながら3男1女を育て、大変なこともたくさんあったと思います。でも、母はいつも笑顔でした。96歳で亡くなるまで、怒った顔はほとんど見たことがありません。相手のいいところを見つけるのが上手で、人の悪口を一切言わない人でした。

そんな母の言葉に、僕は何度救われたかわかりません。兄や姉がものすごく出来がよく、子どものころの僕はずっと劣等感を抱いていました。なにしろ僕は小学校、中学校と体育を除いてオール1でしたから。加えて、中学では先生への反発心から不登校に。生活が荒れ、中学3年生の2学期には退学になってしまいました。越境入学した中学に通っていたので、本来の校区の学校に戻されることになったんです。

退学を告げられた日、僕はものすごく落ち込み、さすがの母も今回ばかりは怒るだろうと思いながらとぼとぼと家に帰りました。ところが、母はいつもの笑顔で僕を出迎え、「お前の人生、これで終わったわけじゃない。これからの方がずっと長いんだから」と言ったんです。続けて、こんな言葉もかけてくれました。「人生はやり直しはできない。でも、出直しはいつでもできるんだよ」って。

さらに、母は「お前は花を踏まない優しい子だし、たばこも吸わない。いい子だよ」と言いました。中学生がたばこを吸わないのは当たり前のことなのに、よほどほめるところがなかったんでしょうね(笑)。それに、「花を踏まない」というのは、僕が幼稚園の時に道端に咲いていた花を避けて歩いたことがあったのを母が覚えていてくれたのですが、実は僕自身は意識していなくて、たまたまだったんです。それでも、母の言葉はすっと僕の心にしみました。以来、僕は花を踏みませんし、たばこも吸いません。

−−言葉の力というのは大きいですね。

北原さん:本当にそうです。母の言葉に励まされたものの、高校進学は「僕を入れてくる学校なんてない」とあきらめかけていました。この時に背中を押してくれたのは、「捨てる神あれば拾う神あり」という父の言葉でした。そして、運よく合格した高校で、僕は恩師・沢辺利夫先生に出会います。沢辺先生は入学直後のテストで60点を取った僕を「お前、やればできるな」とほめてくれました。

その言葉がうれしくて勉強を頑張ったら、それまで脳に何も詰め込んでなかったから、吸収率がいいのなんの(笑)。成績が上がってまたほめられ、自信が生まれてもっと勉強するという好循環が生まれたんですよね。何でも前向きに取り組むようになり、入学時は落ちこぼれだった僕が、卒業式に総代として約800人の同級生を代表してあいさつをするまでに変わったんです。だから、人との出会いや、言葉の力というのはすごいですよね。

大嫌いな飛行機に乗ってくれた、僕の一番のファン

−−北原さんは今でこそおもちゃコレクターとして名を知られ、全国5カ所に博物館などを運営するほか、コレクションを活用したイベントの企画を手がけるなど事業家としても成功していますが、37歳で家業から独立した時は、ご家族から猛反対されたとか。

北原さん:反対というより、ものすごく心配されました。僕は大学時代に古いものに興味を持って集めはじめ、20代半ばにブリキのおもちゃに出会ってからは、家業のスキー専門店でもらった給料のほとんどをコレクションに費やしていました。貯金もなく、ひとりで商売をやったこともない僕が、当時マイナーだった「おもちゃのコレクション」で起業すると言い出したわけですから、今思えば、家族が心配するのも自然なことでした。

でも、この時も母は僕を信じてくれたんですよ。兄たちや姉が母を安心させようと「大丈夫。どうせ数カ月もすればあいつは戻ってくるから」と言ったら、母が「いや、あの子は結構頑張り屋だから、1年は戻ってこないんじゃないか」と答えたらしいんです(笑)。結局、家業には戻らないまま40年近くが経ちました。

うれしかったのは、自分がこれまでに作ったおもちゃ博物館をすべて母に見てもらえたことです。かつて開いていた小樽や博多の博物館にも来てくれました。母は飛行機が嫌いで、「あんなものが飛べるのはおかしい」と乗るのをかたくなに拒否していたのに、小樽の博物館には飛行機で来てくれたんです。僕がテレビやラジオに出演するのもとても喜んで、いつもチェックしていました。僕の一番のファンでいてくれましたね。

『グレートマザー物語』(テレビ朝日系列)というドキュメンタリー番組に親子で出演したこともあります。面白いんですよ、うちの母は。カメラがすでに回ってるのに、「いつ撮るの?」なんて言ってね。「もう撮ってるよ」と答えると、「いやだ」と照れながら、うれしそうにしていた表情が忘れられません。

「ああ、こんなに小さくなっちゃったんだ」

−−北原さんのご活躍は、お母様にとって何よりの親孝行だったのではないでしょうか。

北原さん:でしょう? 僕は親孝行なんです(笑)。「親孝行は自分のためにするもの」というのが僕の考えで、誕生日のプレゼントも欠かしませんでした。母の誕生日はもちろん、自分の誕生日に「産んでくれて、ありがとう」という気持ちを込めて母の好きなものを贈るんです。そのほかにも、鑑定や講演などで地方へ行くと、必ず駅や空港からお土産を送っていました。僕は多い時で月に24回出張していましたから、母のところには週に何度も全国の物産が届くわけです。「また届いた」と喜んでいる母の姿を想像すると、僕自身が幸せな気持ちになるんですよ。だから、94歳で母が亡くなるまでずっと続けていました。

母は大きな病気もせず、僕が生まれ育った京橋の家で眠るように亡くなりました。朝、息がなかったんです。報せを受けて駆けつけ、布団に横たわる母の姿を目の前にして、「ああ、こんなに小さくなっちゃったんだ」と思いました。石川啄木の短歌に「戯れに母を背負いて そのあまりに軽きに泣きて 三歩歩まず」という句がありますが、まさにそんな思いでした。

ただ、母が亡くなって葬儀を終え、日常に戻るまでの1週間ほど、僕はすごく冷静だったんですよ。テレビやラジオの生放送、講演など仕事のスケジュールもびっしり詰まっていたのですが、いつもと同じようにやりました。年を重ねるうちに母を見送る覚悟がある程度できていたということなのかもしれませんが、目の前のできごとを客観的に見ている自分がすごく不思議でした。大好きな母が亡くなったのに、どうして僕はこんなに平気なんだろう、って。

ところが、講演の仕事で大阪に出張し、空港でいつも立ち寄るお土産物屋さんの脇を通った時、急に涙があふれました。「もうお土産を送る相手がいないんだな」と思ったとたん、泣けて、泣けて、どうしようもありませんでした。今でも駅や空港でお土産屋さんを見ると、少しセンチメンタルな気持ちになります。

~EPISODE:癒しの隣に~

沈んだ気持ちを救ってくれた本や音楽は?
原宿のストリート・カルチャーの生みの親と言われる山崎眞行さんのサクセス・ストーリー『原宿ゴールドラッシュ』(森永博志著)です。僕がこの本に出合ったのは、家業のスポーツ用品会社で働きながら独立の夢を抱いて葛藤していた35歳の時。背中を押され、翌年、横浜・山手に「ブリキのおもちゃ博物館」をオープン。それから15年後、僕も『横浜ゴールドラッシュ』を出版しました。『原宿ゴールドラッシュ』がなければ、今の僕はいなかったでしょう。何度も読み返し、その度に励まされてきました。

『横浜ゴールドラッシュ』

北原さんがコレクターとして歩みはじめてからの30年を綴った『横浜ゴールドラッシュ』(一季出版)。「素直」「プラス思考」「勉強好き」を実践する、経営者としてのあり方も垣間見ることができる。

プロフィール

おもちゃコレクター/北原照久さん

【誕生日】1948年1月30日
【経歴】ブリキのおもちゃコレクターの世界的第一人者。1986年4月に横浜・山手に「ブリキのおもちゃ博物館」を開き、以後全国各地でも開館。テレビ東京系列『開運!なんでも鑑定団』には1994年の初回から出演。ラジオ、CM、講演会などでも活躍中。著書多数。
【ペット】ゴールデン・ドゥードルのロビーくん(♂・12歳)
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)