「確かにそこにいた娘たち」俳優 赤井英和さん【インタビュー前編】~日々摘花 第33回~

コラム
「確かにそこにいた娘たち」俳優 赤井英和さん【インタビュー前編】~日々摘花 第33回~
プロボクサーを引退後、俳優として再起を果たし、30年にわたって活躍している赤井英和さん。明るく豪快なキャラクターでバラエティー番組でも親しまれ、最近では妻の佳子(よしこ)さんがSNSでつぶやく意外な姿が注目を浴びています。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

10円を置いて拝む人の列ができた、大阪の祖母のお葬式

−−赤井さんは大阪市西成区ご出身。佳子さんのX(旧ツイッター)で、赤井さんが大阪に行く時の嬉々としたご様子を拝見しています。

赤井さん: 私の実家は、大阪市西成区のあいりん地区にありました。日雇い労働者が多く、地下足袋を履いたおっちゃんが酔っ払って電柱の脇で寝ているような町です。私が暮らしていたころは今よりも治安が悪くて、労働者の暴動もしょっちゅう起きていました。

だけど、人情があるんですよ。うちは祖父母の代から漬物の製造・販売をしていて、昼間、両親は外で働いていたから、子どものころの私の面倒を見てくれたのは祖母だったんですけどね。その祖母が私が大学2年生の時に亡くなり、実家でちっちゃなお葬式をあげたんです。

そうしたら、うちの前を通りかかったニッカポッカ姿のお兄ちゃんが「おばあちゃん、亡くなったんや」と10円を置いて拝んで帰っていくんですよ。ひとり、ふたりとそういう人たちが来て、いつの間にか行列ができました。

祖母は晩年耳が遠くなって、コミュニケーションは取りづらい感じだったんですけれども、毎朝家の周りを掃除して、どんな人にもニコニコと「おはようございます」とあいさつをしていました。その姿を地元の人たちが好きでいてくれていたと知って、すごくうれしかったのを覚えています。「愛されてたんや」と思いました。
赤井英和さんと妻の佳子さん
−−赤井さんご自身も東京のご自宅のご近所さんに亡くなった方がいらっしゃると、手を合わせに行かれるとか。

赤井さん:ヘンですか?

−−全くヘンではないです! ただ今の時代、とくに都会では、お葬式やお通夜に参列することはあっても、ご近所のお宅でお線香を上げさせてもらうような人間関係を築きづらくなっていると感じます。
(同席されていた佳子さんに)赤井さんにとっては、ごく自然なことなんですね。

佳子さん:普段から「ちょっと行ってくる」とご近所におすそわけを届けたりするので、最初は私もびっくりしました。でも、赤井の両親もそうだったので、なるほどと。

−−(編集部一同うなずく)

医師から「8割あきらめてくれ」と言われた命

−−赤井さんは俳優デビュー前に、プロボクサーとして活躍されました。ボクサー引退のきっかけとなった1985年2月の試合では重傷を負い、生死の境をさまよわれたとか。

赤井さん:急性硬膜下血腫、脳挫傷と診断され、緊急で開頭手術を受けました。病院に運ばれた時、両親はお医者さまから「8割はあきらめてくれ」と言われ、手術は5時間におよんだそうです。今も47針の傷がここに残っています。

私には最後の試合でゴングが鳴ってからの記憶がまったくないんです。目を覚ましたら病院のベッドの上にいて、頭を包帯でぐるぐる巻かれていました。でも、二度とリングに上がれないとは思いもしませんでした。

「よし、もう1回やろう。もっと練習して、世界取ったる」という気持ちでいましたから、1カ月強の入院の間、リハビリも優等生。退院の直前に院長室で頭のレントゲンを見せてもらい、「もうボクシングはできへんよ」と院長先生と主治医の先生に言われて、ようやく何が起きたのかを知りました。

そこからはいろいろありましたが、命を「8割あきらめてくれ」と言われた私が、今はこうして元気に役者をやらせてもらっています。だから、あきらめないことが大事だと思います。
−−それほどまで壮絶なご経験をされて、前へ前へと歩んで来られたのはすごいです。

佳子さん:補足をさせていただくと……。赤井と私は1993年に結婚しましたが、結婚したころ、赤井が取材でボクサーを引退したころの心境を聞かれて「石ころにつまずいたら、誰でも立ち上がるでしょ。そんな感覚でした」と言っていたんです。私は引退当時のことを知りませんが、赤井は前だけを向くことでつらさを乗り越えたんだと思います。連れ添って30年以上経ちますが、赤井はずっとそうでしたから。

我が家にとって“死”は“本当のこと”

−−なかなかできることではないです。赤井さん、子どものころからそうだったんですか?

赤井さん: どうでしょう。知らん間にこうです(笑)。

佳子さん:「考えても仕方ないことを、考えない」という性格なんだそうです。日常生活では「もう少し考えてください」と言いたくなることもありますが、踏ん張らなければいけないような一大事が家族に起きた時、私たちはいつも赤井の強さに救われました。

25年前に双子の娘たちを亡くした時もそうです。双子の妹のももこは生後3日、姉のさくらこは病院でいろいろな治療を受けながら一生懸命生きましたが、7カ月で亡くなりました。
−−ご著書『さくらこ ももこ わが逝きし子らよ』で当時のことを知りました。さくらこちゃんの入院中、心配で悲しいけれど、当時、長女のつかささんと長男の英五郎さんが幼稚園児、次男の英佳(ひでよし)さんは2歳。お子さんたちの前で暗い顔を見せるわけにもいかず、おつらかったでしょうね。

赤井さん:病院から撮影現場に行って、夜中に帰ってきたら、佳子ちゃんが泣いていました。何もしゃべらずに、ふたりで泣きました。顔を見合わせては泣いていました。
佳子さん:そうだったらしいのですが、私は覚えていないんです。私はただ自分がかわいそうで、自分の子どもたちと自分に起きたできごとが悲しくて、苦しくて。赤井が同じように苦しんでいることにまったく気づかず、赤井は大丈夫だと思っていました。

でもある日、ふと横を見たら、大丈夫なんかじゃ全然ない赤井がいました。その時に初めて、赤井も私と一緒だったんだと気づきました。

自分のことなら「石ころ」でも、子どものこととなると、そうはいかない。どうしようもなく、苦しい。ボロボロになりながら、それでも、赤井は一生懸命私を励ましてくれました。

赤井さん:佳子ちゃんも励ましてくれました。

佳子さん:そうかな。

赤井さん:そうです。
ももこは3日の命でしたけど、さくらこは生きてくれて、もう少しで家に連れて帰れると思いましたが、かないませんでした。病室には私たちしか入れなかったので、きょうだいにも会えませんでした。子どもたちには、さくらこの写真も見せていません。迷ったけれど、吸引の管をつけられた赤ちゃんの姿を見るのは、幼い子たちにはショックが大きいと考えました。

でも、子どもたちは、さくらこのことを感じていたみたいです。ある時、うちに仲間が遊びに来ましてね。後輩が連れてきた赤ちゃんをみんなで「かわいい、かわいい」と囲んでいたら、英五郎が「さくらこちゃんは、もっとかわいいよ」と言ったんです。「会うたこともないのに」と思いましたが、子どもたちの心にさくらこがいることがうれしかったです。

小さいころからうちの子たちは、冗談でも「死ぬ」とか「死ね」という言葉を使いませんでした。言って聞かせた覚えはありませんが、使いません。「軽はずみに使ってはいけない言葉なのは誰でも同じだけど、うちにとって“死”は“本当のこと”。だから、あの子たちは使わないんじゃない」と佳子ちゃんは言います。私もそうだと思います。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
やっぱり、焼肉です。東京・恵比寿の焼肉店「虎の穴」の厚切りハラミを食べたいです。オーナーの辛永虎(シンヨンホ)さんもボクサーだったんですよ。広尾に住んでいたころにお店がオープンして、辛さんとは30年以上のつきあい。家族とも友人ともしょっちゅう行っています。焼肉は大好きで充分食べていますが、最後の晩餐と言ったら、焼肉以外に考えられませんね。

「虎の穴」のハラミ

肉本来の本物の味を追求したハラミ。

プロフィール

俳優/赤井英和さん

【誕生日】1959年8月17日
【経歴】大阪市西成区出身。高校在学時にボクシングを始め、近畿大学進学後、プロに転向。12連続KO勝利の日本記録を樹立。1989年、映画『どついたるねん』の主役を務め、俳優デビュー。以後、ドラマ、舞台、ドキュメンタリー、バラエティなど幅広く活躍。

Information

発売中 『AKAI』 ¥4,290(税込) 発売・販売元:ギャガ
©映画『AKAI』製作委員会
赤井さんの現役ボクサー時代の軌跡をたどったドキュメンタリー作品『AKAI』のDVDが2023年3月17日(金)に発売。監督・編集を務めたのは、現役のプロボクサーであり、アメリカで映像を学んだ赤井さんの長男・英五郎さん。ボクサー時代の試合や取材の映像だけでなく、俳優デビュー作となった映画『どついたるねん』の映像もふんだんに使われ、ボクシングファンでなくても画面に目が釘づけになる作品だ。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)