「泣きながらでも、笑って供養」上島光(広川ひかる)さん【インタビュー後編】~日々摘花 第43回~

コラム
「泣きながらでも、笑って供養」上島光(広川ひかる)さん【インタビュー後編】~日々摘花 第43回~
お笑い芸人の故・上島竜兵さんと28年間連れ添った妻・光さん。竜兵さんの突然の死から約3カ月後には乳がんを患い、手術を受けました。後編では、夫の死や大病を経た現在の思いや、死生観を伺います。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

初盆の終わりに受けた、乳がんの告知

−−竜兵さんが亡くなって間もなく、光さんは乳がんを患われたと聞きました。

光さん: 竜ちゃんが亡くなった直後は泣いている間もなく葬儀の準備に追われ、その後は各種届出などさまざまな手続きに走り回る日々が始まりました。そのうえ、自宅からテレビの生中継をされたために、それまでの住まいに住んでいられなくなり、引越しを余儀なくされました。そんな状況でしたから、竜ちゃんが亡くなって1カ月ほど経ったころにお風呂で右胸にしこりを見つけたものの、病院に行く時間もなく後回しにしていたんです。
光さん:引っ越しが終わった夜、福岡から手伝いに来てくれていた友人に胸のしこりのことを初めて話すと、「すぐに検査をした方がいいよ」と言われました。この時に思い浮かんだのが、竜ちゃんとよく行ったお寿司屋さんで知り合った医師のY先生でした。竜ちゃんが亡くなった時にお悔やみのご連絡をくださり、「自分が力になれることがあったら」と言ってもらっていたんです。お言葉に甘えて相談をしたところ、すぐに診てもらうことができました。

主治医の先生から電話をいただき、乳がんを告知されたのは、竜ちゃんの新盆が終わるころでした。「何で私ばかり、こんなひどい目に遭うの」と思いましたね。「前世でよほど悪いことをしたんだろうか。相当な悪党で、ろくでもない人間だったに違いない」と前世の自分を呪いました。そのくらいしか、気持ちのやり場がありませんでした。

ただ、早期発見のおかげで病状は「ステージ1」。リンパ節への転移はなく、しこりの部分とその周辺だけを除去する手術を受け、無事成功しました。がんが見つかったことを母に報告すると、動揺して泣き出してしまって。泣きたいのはこっちの方でしたが、「母を悲しませないよう、しっかりしなければ」と思って泣きませんでした。

実は竜ちゃんの生前、ポリープ除去手術をしたことがあるんです。この時は術後の病理検査の結果、がんではなかったのですが、竜ちゃんは信じず、「ヒーチャンが、がんになっちゃった」と泣き崩れました。今回は本当にがんだったので、竜ちゃんはもっと泣くはず。そう考えたら、「やっぱり私が泣くわけにはいかない。天国にいる竜ちゃんが心配しないようちゃんと治さなければ」と思いました。

「竜ちゃん」について書くことで、一歩前に進めた

−−手術後はどのような日々でしたか。

光さん: 手術後1カ月ほどして放射線治療を受けはじめ、週5日、5週間病院通いをしました。その後はホルモン剤を服用しながら2カ月に1回定期検診を受けていて、今のところ経過は順調です。乳がん検査から手術、その後の治療までスムーズに進んだのは、病院の先生方はもちろんのこと、竜ちゃんが見守ってくれたからかなと思っています。

母や兄夫婦、友人にもずいぶん支えられました。今でもみんなしょっちゅう会いに来てくれたり、連絡をくれるんですよ。家にいる私を連れ出してくれたり……。さりげなくそばにいてくれて、「頑張って」とは誰も言いません。

−−2023年8月には竜兵さんのことを綴った『竜ちゃんのばかやろう』を出版されました。なぜ本を書こうと思われたのでしょう。

光さん:上島竜兵という芸人を皆さんに忘れてほしくなかった、というのが一番の理由です。同時に、竜ちゃんのキュートで面白いところを知ってほしいと思いました。竜ちゃんが亡くなった直後から私への取材の申し込みがたくさんありましたが、お受けできるような状況ではありませんでした。いずれはお答えしなければという気持ちはあったものの、発言の一部だけが取り上げられたような記事が出るのは避けたくて、自分の言葉で伝えたいと本を書きました。

執筆は簡単ではありませんでした。ひとり遺された者としてやるべきことに追われる日々の中、私は竜ちゃんのことをなるべく考えないよう心がけていました。そうしないと、思考がストップして身動きできなくなってしまうからです。でも、本を書くとなると「竜ちゃんのいない現実」に向き合うことになります。竜ちゃんのことを考えると涙があふれ、悲しみだけでなく、「どうして何も言わずに逝ってしまったの」という怒り、「私があの時、こうしていれば」という後悔、孤独感などさまざまな感情が湧きました。心が乱れ、何度も筆が止まりました。
光さん:辛さもあったけれど、あの本を書いたことで、ようやく一歩前に進めたような気がしています。自分の中にあるさまざまな気持ちに向き合うことによって、心に折り合いをつけていく手がかりを得ることができたからです。そのために本を書いたわけではないけれど、執筆の機会をいただいて本当に良かったと思っています。

出版後は、SNSでたくさんの長文メッセージが届きます。「光さんと同じように家族を亡くしました」「心を病んで、通院をしています」という方も多く、「本を読んで救われた」というようなお言葉をいただいたりもします。「自分でも誰かの役に立つことがあるんだ」と思うと、私自身も救われます。

“恨み節”で人生を終えたくない

−−竜兵さんが他界されて1年半。今はその存在をどのようにお感じになっていますか。

光さん:悲しくて、腹立たしくて、悔しくて、「ばかやろう」と言いたくなる気持ちはやっぱり消えません。一方で、同じくらい「ごめんね」や「ありがとう」とも思うし、「お疲れさまだったね」と声をかけることもあります。

「時間薬が悲しみを癒してくれる」とよく言うけれど、どれだけ薬が必要なのかわかりません。正直に言えば、「何もしたくない」と思う日もまだあります。

でも、しょんぼりしたままだと、「竜ちゃんのせいでつまらない人生になった」と“恨み節”で人生を終えることになりかねません。そんな人生を送るのは嫌だし、竜ちゃんが可哀想です。だから、前を向いて歩いて行こうと自分に言い聞かせています。

乳がんの手術が終わって目が覚めた時、竜ちゃんの顔を見られないことがすごくさみしかったけれど、よくよく考えたら、見られなくて助かりました。竜ちゃんに再会するには早過ぎます。これからの人生は天国の竜ちゃんにうらやましがられるくらい楽しいことでいっぱいにして、この世を満喫してから逝きたいです。

−−最後に、読者に言葉のプレゼントをお願いします。

光さん:「笑って供養」という言葉を共有させていただけたらと思います。2020年3月に志村けんさんが亡くなった時、竜ちゃんは家ではめそめそ泣いていましたが、外では決して泣きませんでした。「俺は絶対泣かないよ」と言い、テレビでコメントを求められた時には、志村さんの良い話だけでなく情けなくて面白い話をしていました。笑って見送ることが供養になる、という考えだったからです。
光さん:あの時は想像もしていませんでしたが、「遺族」となり、天国にいる竜ちゃんを思う今、大切な人を笑って見送るということの意味を実感しています。亡くなった人のことを笑うのは不謹慎と思われる方もいるかもしれませんが、私は皆さんが竜ちゃんの思い出を話しながら、笑ってくださるたびに救われる思いになります。

大切な方を亡くして笑うことなんてとてもできない、と誰もが思うでしょう。でも、泣いてばかりいたら、故人も悲しいのではないでしょうか。だから、泣きながらでも、その方との楽しい思い出をいろいろな人と語り合って、笑っていただけたらと思います。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
お寿司です。竜ちゃんとは近所のお寿司屋さんによく行きました。私が決まって頼んだのはコハダとイワシ。光り物が好きなんです。かなうことなら、竜ちゃんの隣であのお寿司を食べたいですね。

光り物

「光り物」とはお寿司屋さんの専門用語で、コハダ、イワシ、サバ、アジなど背中が銀白色に光った小型の魚のこと。光り物の魚は鮮度の低下が早いため、塩をあてて酢で締めて用いられることが多い。酢締めには微妙な加減が必要なので、「光り物の寿司を食べれば、職人の腕前がわかる」と言われる。

プロフィール

タレント/上島光(広川ひかる)さん

【誕生日】1970年10月6日
【経歴】埼玉県出身。高校時代から芸能界を志す。1988年、フジテレビ系の「発表!日本ものまね大賞」で優勝し、芸能界入り。1994 年に上島竜兵氏と結婚。一時主婦業に専念するが、その後ものまね番組や情報番組のリポーター等で活動している。芸名・広川ひかる。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)