【防災の日】暮らしも家族もなくしかねない緊急事態に備えて~2016年の熊本地震を語る~

コラム
【防災の日】暮らしも家族もなくしかねない緊急事態に備えて~2016年の熊本地震を語る~
日本は世界有数の災害大国です。東日本大震災や西日本豪雨が現地で大きな爪痕を残したことは記憶に新しく、令和に入っても自然災害が相次いでいます。
家族葬のファミーユは、2016年に熊本地震を経験しました。会館もスタッフも被災しながら、被災地で葬儀サービスを絶やさず続けた実績があります。いつ誰に訪れるかわからない、被災地での葬儀経験をお伝えします。

僅か2日余りで震度7が2回の激甚災害

人の死は思いがけずに訪れます。自然災害も同じです。2016年4月の熊本地震も、地震の専門家を除いては突然の出来事だったに違いありません。この経験と記録を未来への備えにつなげるために、まずは当時の状況を振り返ります。

地震の詳細

東日本大震災から5年。2016年(平成28年)4月、熊本県と大分県で相次いで大きな地震が発生しました。4月14日の夜と4月16日の未明には、気象庁の震度階級で最大とされる「震度7」を観測する地震が発生。この他にも大きな余震とみられる、震度6強の地震が2回、6弱の地震が3回記録されています。

2019年4月に内閣府が発表した被害状況によると、死者数は273名、負傷者数は2,809名に上ります。最大時、熊本県では18万人強、大分県では1万2,000強が避難所で過ごしました。

ライフラインの電力は、九州電力管内で最大47万7,000戸が停電。断水は、熊本県・大分県を中心に九州全土に渡り、最大44万5,857戸を記録しました。「水の都」と称される熊本での断水は、市民にとって不便なだけでなく、えも言われぬ不安をもたらしたことが想像できます。

参考資料:平成28年(2016年)熊本県熊本地方を震源とする地震に係る被害状況等について(2019年4月12日内閣府発表)
http://www.bousai.go.jp/updates/h280414jishin/pdf/h280414jishin_55.pdf

ファミーユの被災状況

家族葬のファミーユは熊本市内で葬儀場「ファミーユホール」を直営しています。震災当時は市内で14店舗を展開していました。

2016年4月14日(木)21:26に、熊本市中心部を震源にした最初の地震、M6.5の前震が発生。すぐさまファミーユの東京本社に「熊本地震災害対策室」が設置されました。本社・各支社のスタッフが連携し、現地との連絡網を構築。前震から4時間半後の0:53には現地の従業員・関係者全員(52名)の生存を確認し、全社員に伝えられました。

4月16日(土)1:26のM7.3の巨大な本震でさらに被害は拡大。ファミーユホールの中でも震源地に近い、花立〔はなたて〕・長嶺西(いずれも熊本市東区)、横手(同西区)の3店舗は特に大きな被害を受けました。即日、当社は本社から幹部スタッフを派遣。現地での判断スピードを上げ、建物の安全が確認できた「はませんホール(同南区)」での営業を選択しました。水道や電気、鉄道などの社会インフラが止まり、限りある物資や資源の中でも、現地にいるスタッフ達は地域社会の求めるご葬儀サービスの提供を続けました。中には、避難所や車で寝泊まりしながら勤務する者もいました。

赴任当日の前震、仮宿での本震。三度目がよぎる中での現場対応

被災後に普段通りの暮らしを取り戻すことは容易ではありません。しかし、熊本に葬儀場をもつファミーユはいち早く復旧し、いつも通りの葬儀を続けることができました。それを可能にしたものは、何だったのか。

前・熊本支社長の藍田哲也と、東京の本社から現地に駆け付けた執行役員の内田一平(現・熊本支社長)に、当時の様子と災害時の葬儀に必要なことを聞きました。

素早い初動で被災中も葬儀サービスの提供を継続

藍田:私は熊本地震のまさにその日に支社長就任の挨拶で熊本の地に降り立ちました。幸い前震ではそれほど大きな被害がなく営業を続けました。ご遺体をお預かりするご安置や、お通夜なども行っていました。二度目の本震は衝撃が大きく、宿泊していた宿から浴衣のまま飛び出したことを覚えています。
震災当時の熊本支社長 藍田哲也
藍田:ホールの状況を確認したのですが、長嶺西と花立は天井が落ちていました。長嶺西は建物が古くて二階建てだった、というのが大きな被害につながったように思います。横手は比較的地盤の弱いところだと言われていたように、駐車場が地割れしていました。水のでないところや電気のつかないところもありましたが、スタッフ全員無事であったことが何よりでした。
内田:本社側で最初に取り組んだのが「熊本地震災害対策室」の立ち上げと、連絡網の確保です。現地に本社スタッフが偶然出張していたこともあり、支社スタッフと本社スタッフの2つのホットラインができました。現場の最前線で奮闘するスタッフの携帯電話の充電が切れないように、本社災害対策室に支援要請や安否確認の連絡を集中させるようにし、重要事項が確実に現場へつながるようにしました。
執行役員 熊本支社長 内田一平
内田:次の施策として、被害の少なかった「はませんホール」への事業の集中を決め、市内の他店舗を閉鎖を指示しました。さらに、本震のあった16日に当時本社にいた私ともう1人が現地の応援に入りました。2人とも葬儀社経験が長く、本社から指揮権の委譲があったので、対策と実行が即断できました。

普段は1日1組でゆっくりお別れのできるご葬儀を掲げて家族葬を行っていますが、被災時は即興で『被災者支援プラン』を打ち出しました。これは、はませんホールだけで10名のご遺体を預かるという緊急事態のご葬儀プランでした。当時、ホールが被災して葬儀の施行ができない葬儀社が多かったものですから、1組だけではなく、なるべく多くの地域住民をお助けできるように考えました。大きな地震が続いたこの間にも、早い初動対応で継続的により多くのお別れのお手伝いができたと思います。

物資が熊本に集結

藍田:当時、陸路はつながっていましたが交通渋滞がひどく、スーパーはおろか流通網の発達している全国区のコンビニにおいても必要なものが手に入りにくい状態でした。断水でファミリーレストランなどが開いておらず、食事にも困りました。
被災当初は地元のコンビニに商品がほとんどなく、ホールも地震の被害にあった。
内田:現地で温かいカップ味噌汁を飲んだ時の喜びは忘れがたいですね。当社は日本各地に支社ネットワークを持っていて、このような食糧などが早い段階で届けられました。同じ九州エリアにある宮崎支社がトラックを出し、支援物資をいち早く届けに来てくれました。16日の本震以降、本社や全国の支社からも多くの支援物資が届きました。
2011年の東日本大震災は経験していましたが、被災地にホールがなかったため、ここまでの災害時対応を求められるのは初めてのことでした。ただ、いま考えると、東日本大震災で協力業者に支援物資を送った経験がこの熊本震災にも生かされたのではないかと思います。
藍田:品薄感のあった県内の状況に対して、当社の熊本支社倉庫にはかなりの物資が揃っていたという印象があります。このおかげで、「家族」として一緒に働いている社員やパートの皆さんはもちろん、従業員の家族にもいち早く必要物資を渡せました。本社から出張できていたスタッフが現地にとどまり、パート従業員などがいる避難所への物資の配給を受け持ってくれました。東区、南区の避難所など、離れた場所も6エリアほど回ってくれたと思います。

自分も2011年の東日本大震災を経験していたので、前震を受けて、2~3日分の水や食糧の購入、ガソリンの給油は済ませておきました。当時、困った記憶があったものですから念のためにと思い、確保しておいてよかったです。
内田:支援・救援物資は、時間がたつにつれて求められるものが変わります。最初は水や食料など生きるための基本的なものが必要ですが、葬儀の回数が増えるに従い、棺などの葬祭必需品が減っていきます。本社にこれらの情報を随時共有していたので、必要なものを必要な時に、それもかなりスピーディーに熊本に集めることができました。

有事でも心のこもった葬儀ができるプロ意識

藍田:物資の充実だけではありませんでしたね。人、スタッフにも恵まれていて、自らが被災しているのにも関わらず、すぐに仕事を始めてくれました。

また、人手不足で困っている熊本にほかのエリアからスタッフが集まってきてくれました。隣県の宮崎はいち早く駆けつけてくれましたし、支援の手は遠く離れた千葉支社からも。海外旅行にでも行くかのような大きなスーツケースに支援物資をいっぱい詰め込んできてくれました。連日の勤務で現地スタッフも疲弊していたので、ありがたかったです。
内田:手前味噌ながら、プロ意識の高い葬祭ディレクターが数多くいることをこの機に改めて感じました。我々現場にいる人間も、応援のスタッフをすぐに必要なホールに派遣できる体制や、指示系統を整えてありました。このおかげで、有事の際にも早い段階から心のこもった葬儀が施行できたのです。

人を手配するのは思いのほか大変なことです。例えば5人体制の支社から2人のスタッフを他の支社に派遣するとなれば、普段は5人でする仕事を3人でしなければならない。でも、全国にちらばっている支社同士が、ここぞという時にはすぐに結束し、行動を起こしてくれました。そんな組織力と「スタッフ同士の絆」が、当社の強みだと再認識しました。
藍田:情報伝達と収集にも神経を注いでいたと思います。本震2日後の18日には近隣の病院や県の施設に書面などで開業情報をお伝えしました。当時まだ営業している葬儀社が少なかったので、貢献できることがあればとの思いからです。

地域のインフラというにはおこがましいですが、避難所や車で寝泊まりするスタッフやその家族にシャワーや駐車場を貸し出したりもしました。過去に当社でご葬儀をされたお客様から骨壷が割れてしまったという声が聞かれましたので、顧客・会員の有無にかかわらず約80個の無償提供をさせていただきました。会社には取り組みを始めてからの事後報告が多くて申し訳なかったです(笑)。

25日には営業ホールを4店舗に、5月6日には6店舗に拡大。8月1日には14ホールを全面開業させ、4か月足らずで日常に戻すことができました。しかし、この震災後しばらくは、お通夜などでホールに留まり、お付き添いになられるご家族の連絡先名簿をお作りしました。いつ余震があるか分からず、万一に備えてのことでした。もしかしたら、今現在も必要なものかもしれません。

また、震災を経てからは、商品在庫がある程度は備蓄として必要だと意識するように変わりました。来館プレゼントに防災グッズなどを用意し、普段からの備えに対する意識が高まったと思います。
内田:熊本震災は前震のあとに本震が来たことで、三度目が来るかもしれないことが本当に恐ろしかった。しかし、被災しながらも葬儀社として社会に求められているサービスを全力で提供させていただきました。全支社の協力により、葬儀のご依頼を1件も断らずにすみました。

ただ今思えば、地域にもっと貢献できたのではないか、とも思うのです。例えば、ホールの2/3程度を開放して避難所にしても良かったと思っています。当社の強みは全国に支社があり、被災していない地域から品物が調達できることです。困っている地元の人たちに、もっとできることがあったのではないかと考えてしまいます。

上場も果たしてさらに企業の総合力が増しました。このようなことは二度とあって欲しくはないですが、でもまた災害に見舞われた際には、さらに大きな社会的責任を果たせるファミーユでありたい、今回の経験を生かしたいと思っています。

非常時に備えられる情報管理システム

スタッフの質の向上、支社同士のネットワークも有事の葬儀に重要ですが、非常時にこそ顧客情報の管理体制が大切です。

出張や旅行などで急な災害に巻き込まれて、居住地とは違ったところでお亡くなりになることもあるでしょう。遺族はただでさえ慣れない地域で、知らない人たちと、遺体の搬送や葬儀について相談しなければならないかもしれません。

家族葬のファミーユでは、お客様の情報をデータベース化。徹底したコンプライアンスのもと支社間でその情報を共有・管理しています。

事前にご登録がされていれば、首都圏で相談を受けて、地方でご葬儀となった場合でも、現地へしっかりと情報共有されます。これによって、お客様の貴重なお時間を余分に取らせることはありません。

顧客情報をデータベースに保管。事例やノウハウは全国の支社で共有

内田:弊社では、お客様の情報を紙ではなくデータベースに保存しています。地震や火災で喪失することはありません。また、支社間の情報共有という場所の移動だけでなく、時間の経過にも対応できます。たとえ十数年前にご葬儀の事前相談をしていただいたお客様でも、ご要望いただけば当時どんな内容をお話しされたかということまですぐ分かるようになっています。

藍田:このデータベースを活用して、お客様に喜ばれた良い事例は他の支社でも参考にできるように、会社の共有資産としています。また、悪い事例はその原因を徹底的に議論し、次に活かせるように情報共有しています。このようにITを活用して溜めたノウハウをサービスの質の向上に役立てています。

被災経験を糧に「地域を支える」生活サービス産業として

ファミーユは被災地にあっても葬儀サービスを絶やさず、地域のお困りごとに親身になって取り組んできました。それは今後も変わりません。サービスの安定供給はもちろん、もっと地域や社会に貢献できることはないかとスタッフの一人ひとりが考え続けています。

備えあれば憂いなしとはよくいったものです。時間のあるうちに、備えておく、まずは自宅の防災グッズを点検することから始めませんか。防災バッグの中には、当社のフリーダイヤルをメモして忍ばせておくこともおすすめします。

その番号は、いざという時の生活の安心につながることをお約束します。