「父の死と、私の中の『死にたいさん』」タレント・エッセイスト 小島慶子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第11回~

コラム
「父の死と、私の中の『死にたいさん』」タレント・エッセイスト 小島慶子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第11回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。
第11回のゲストは、タレント/エッセイストの小島慶子さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
歯切れのいい発言と、飾らない姿勢が魅力の小島さん。テレビや雑誌などで華やかに活躍する一方で、ADHD、摂食障害、不安障害などの「生きづらさ」を抱え、その根本には、生まれ育った家族との関係性があったと明かしています。今回のインタビューでは、家族とのそうした関係性に変化を与えた、お父様との別れについてお話しいただきました。

手のひらの中で動かなくなった、雀の子

ーー小島さんが「死」というものを初めて意識したのはいつごろでしたか?。

小島さん:小学校中学年のころです。自宅の軒先に落ちてきた雀の子を見つけ、えさを与えて助けようとしたのですが、かえって良くなかったのか、自分の手のひらの中で動かなくなってしまったんです。「私のせいで死んじゃったのかもしれない」という後ろめたさとともに、質量を伴った何かが失われていく感覚が身体に残りました。その瞬間のことは、ちょっと忘れられません。

ただ、最近まで、「死」を日常のものとして実感を持って捉えたことはありませんでした。10代半ばから摂食障害を繰り返したり、30代前半には育児をきっかけに不安障害を発症したりして、「死にたい」と思ったことは何度もあります。でも、それは「死」を考えるということとは違いますよね。「死にたい」というのは「生きたい」ということですから。

「こうではなく生きたい」という気持ちが強いがゆえに、今の人生を終わらせてしまいたくなる。いわゆる「ここではないどこかへ症候群」です。「死」はいつも私の逃げ場所で、それがファンタジーだとわかっていながらも、「死」というものが何か、すべてを許してくれるように思えてしまうことがあるんです。

だけど、年齢を重ね、息子たちの誕生や、近しい人たちの死といった、命に触れるできごとを経験し、自分自身も過労で倒れて救急車で運ばれたりしてみると、「死というのはそんなに生易しいものじゃねぇぞ」と思い知らされました。とくに、2018年に他界した父の最期から教わったものは大きかったです。

「死にたいさん」と二人三脚で生きてきた

ーーお父様は84歳で亡くなったそうですね。

小島さん:自宅で脳出血を起こして救急車で病院に運ばれ、意識不明のまま4日間頑張った末に他界しました。私が一緒にいられたのは最後の12時間ほどでしたが、たまたま病室に二人きりの時に最期を迎え、私の腕の中で逝きました。

父は延命治療を望んでいなかったので、私が病院に着いた時には、脳の機能が衰弱していくのをただ見守るしかない状況でした。それでも、父の身体は懸命に生命を維持しようとしているんですよ。

80歳を超え、心臓にステント(金属製の網状チューブ)も入っている父が、脈拍が乱れ、40度の高熱を出している状態でも、酸素マスクをしてフーフー呼吸しながら生きている。人というものは、これほどまでに最後の最後まで生きようとするものなのか、と初めて知りました。

静かに息を引き取った父は、全力疾走して倒れこみ、かあかあと眠っている子どものようないい顔をしていました。その顔を見て、魂が身体を離れるというのは生半可なことではないと学びました。

だからといって、私の中から「死にたいさん」がいなくなったわけではないんですよ。私は思春期から生きづらさを感じることが多く、今もここに「死にたいさん」がいて、二人三脚で生きています。ただ、父の死によって、命あるものが生きようとする力の凄まじさをまざまざと見て、「死にたいさん」に同調できなくなりました。「いやいや、死ぬってそう簡単なことじゃないよ」と言う自分が出てくるようになったんです。

父との距離が縮まった、病室の父との12時間

ーー生前のお父様は、小島さんにとってどんな存在でしたか?。

小島さん:父は日本の高度経済成長期を支えた世代の商社マン。海外出張で飛び回り、週末は接待ゴルフに出かけることも多く、朝から晩まで働いていました。たまの休日には庭仕事をしたり、ドライブに連れて行ってくれたり、家庭を大事にしようとする気持ちは十分伝わってきましたが、日常の中でゆっくり会話する機会はあまりなかったです。

だから、母や姉に比べて、父からの情報量はすごく少なく、私にとって父はリアルな存在感が薄かったように思います。そのために思春期は父に理想像を求めがちで、現実の父とのギャップに苛立ち、冷たい態度しか取れなかった時期もありました。

大人になってからも、父と深く理解し合えていたとは言えません。不安障害を発症した時に臨床心理士の先生から言われて気づいたのですが、私が育った家族は不器用というか、それぞれが肉親との関係に葛藤を抱えていて、なかなか大変でした。私には母の過干渉や9歳上の姉との関係性が重く、父は父で女性ばかりの家族に自分がどう向き合えばいいのかわからなかったんでしょうね。事を荒立てないようにあまり深く関わろうとしませんでした。

社会に出て独立してからは実家から足が遠のきがちで、戻る時は常に「よし会うぞ」と気構えが必要でした。不安やおびえを抱えつつ、「今度こそはわかり合えるかも」と心のどこかで期待し、結局は裏切られる、ということの繰り返しでしたね。父ともずっと精神的に距離のある関係で、その距離が縮まることはないと半ばあきらめていました。

ところが、父と最後に一緒に過ごした12時間で、初めて父の存在を非常に近いところで感じました。懸命に生きようとする父の姿は生命そのもので、ずっとどこか抽象的だった父の存在が、実体を伴ったものとして目の前に現れたんです。

すごく不思議なのですが、父との最後の別れを思い出すと、すごく温かで、明るくて。何か尊いものを見たような、とても明るい印象なんですよ。あの時の私は、父が燃やし切った命の、最後の炎が放つ温かさと明るさに当たっていたような感じがします。

2014年に夫と息子たちの生活のベースはオーストラリアに移しましたが、私は日本を拠点に働いています。でも、東京にいる時も親とはあまり会う機会がなく、父と直接会ったのは、移住時に空港に見送りに来てくれたのが最後になりました。もっと会う機会を作ればよかったという思いもありますが、最後の最後に、たまたま二人きりの病室で一緒に過ごせたのは、何かの巡り合わせかもしれません。最後まで生き切った父を誇りに思うとともに、生きることの尊さを見せてくれたことに感謝しています。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
最後の最後には、自分がこの世に生まれた土地であり、家族が暮らすオーストラリア・パースに戻りたいです。今のところ、死後は西オーストラリアの海に散骨してもらいたいと希望しています。来世はシロナガスクジラになりたいと思っているので、海に還りたいなと(笑)。昔から、大きいものになりたいんです。

オーストラリア・パース

西オーストラリア州の州都・パース。高層ビルが立ち並ぶ中心街には雄大なスワン川が流れ、自然と都市が調和している。穏やかな気候で暮らしやすく、郊外にはインド洋に面して美しい砂浜が広がる。小島さんおすすめの観光スポットは、パースからフェリーで40分ほどの「ロットネスト島」。素晴らしいビーチが多くあり、島に生息する有袋類の「クアッカワラビー」が見られる。なお、パース・日本間は平時には直行便が運航している。
※写真はイメージです。

プロフィール

タレント・エッセイスト 小島慶子さん

【誕生日】1972年7月27日
【経歴】オーストラリア生まれ。学習院大学法学部政治学科卒業後、1995年にTBSに入社。アナウンサーとしてテレビ、ラジオに出演する。2010年に退社後は各種メディア出演のほか、執筆・講演活動を精力的に行っている。『AERA』『VERY』『日経ARIA』など連載多数。東京大学大学院情報学環客員研究員、昭和女子大学現代ビジネス研究所特別研究員。
【そのほか】2014年 オーストラリア・パースに教育移住。夫と息子たちが暮らすパースと、仕事場のある日本を往復する生活を続けている。

Information

雑誌『VERY』で10年続いた連載をまとめた『曼荼羅家族「もしかしてVERY失格!?」』(光文社)。一家の大黒柱として日本とオーストラリアを往復しながら読者の悩みに寄り添い、泣き、笑い、怒った、読者ママたちとの共感の記録。作家・白岩玄さんとのロング対談「男らしさの呪いを解く」も収録されている。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)