「“おもいで”が心にある限り」歌手小林幸子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第22回~

コラム
「“おもいで”が心にある限り」歌手小林幸子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第22回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第22回のゲストは、歌手の小林幸子さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
10歳でデビューして58年。演歌やポップスはもちろん、アニメソング、ボカロ曲まで歌いこなし、幅広い世代に人気の小林さん。前編ではご両親とのお別れや、「永遠の別れ」との向き合い方に変化を与えたある映画についてお話をしてくださいました。

「じゃあね」とばかりに旅立った、新潟女性の潔い母

−−これまで経験された「永遠の別れ」の中で、とりわけ心に残っているのはどなたとのお別れでしょうか。

小林さん: 真っ先に思い浮かぶのは両親でしょうか。とくに2001年に他界した母との別れは急でしたから、受け止めるのに時間がかかりました。母との最後の思い出は、恒例の温泉旅行。食事をしている時に「幸子、これからは自分の幸せことだけを考えなさい。親孝行はもういっぱいしてもらったから」と母が言ったんです。「何を言ってるの、お母さん」と笑いましたが、母はすでに何かを感じていたのかもしれません。ほどなくして亡くなりました。

父が大正9年生まれで、母は父の2歳年下。よく「女性の方が長生きする」と言いますし、母自身も常々「お父さんはひとりじゃ何もできないから、お父さんを置いては絶対に逝けない」と話していたんです。ところが、「じゃあね」とばかりに父を残してあっという間に亡くなってしまいました。やり切れず、思わず遺影に向かって「それはないでしょう」と怒ったほどです。でも、母らしい最期だったと今は思います。

−−お母様はどのようなお人柄でしたか?

小林さん:潔い人でした。典型的な新潟の女性で言葉数が少なく、静かでしたが、行動力と決断力があり、考え方は「男」でした。竹を割ったような性格でしたね。両親がかつて営んでいた精肉店も、戦後「肉の時代が来る」と直感した母が会社員の父を説得して始めたと聞いています。

私が9歳で歌手としてスカウトされた時、若いころの自分の夢を娘に託し、大喜びした父とは対照的に母は猛反対しました。今とは違い、情報の少ない時代です。後で聞いた話では、年端も行かない末っ子をひとりで上京させ、芸能界に送り出すのは母にとって「生木を裂かれるような思い」だったそうです。

ところが、ひとたび私が「歌手になりたい」と口にしてからの母の姿勢はきっぱりしたものでした。「わかった」と言うや否や私の手を引っ張ってタンスから着物を取り出してたたみ方を教え、ひとりでたためるようになるまで覚えさせられました。芸能界で仕事をするからには大人も子どももない。これからは自分の生き方に責任を持って生きて行かなければいけない、ということを母は教えてくれたのだと思います。

母との最後の温泉旅行で「私が歌手になったことをまだ反対してる?」と聞くと、母は笑いながらうなずきました。「平凡な人生が一番」言っていた母ですから、私には歌手である前に、ひとりの女性として幸せであってほしいという思いがあったはずです。だから、「これからは自分の幸せだけを考えなさい」と私の背中を押してくれたのでしょう。私のことを一番わかってくれていたのは母でした。

父からの電話を受け、咄嗟についた嘘

熱海の風景
−−お母様はご自分が亡くなった後のお父様を心配されていたとうかがいましたが、お父様のご様子はいかがでしたか。

小林さん:両親は静岡県熱海市に建てた家に住み、母の他界後も父はそこで暮らしていたのですが、一気に元気がなくなりましてね。母が亡くなって1年半くらい経ったころでしょうか。父から電話があり、「お母さんがいないんだよ。そっちに行ってるか?」と言うんですよ。

父を悲しませたくなくて、とっさに「ううん。今日は来てない」と答えました。すると、父は「そうか。お母さんがそっちに行ったら、早く帰るよう伝えてくれ」と。「わかった」と返事をして電話を切った途端、母に対する父の強い想いが切なくて号泣しました。

認知症症状で記憶がまだらだったんでしょうね。母が亡くなったと言うと、父は「ああ、そうだった」とわかりはするんですよ。わかったり、わからなかったりを繰り返しながら、母の他界から5年後、父は亡くなりました。米寿まであと1年でした。

晩年の父は熱海市にある介護施設でお世話になっていました。最後の最後に家族や親戚がみんなそこに集まった時、父はすでに意識がなく、言葉を発せない状態でした。その父が私の顔を見た途端、「ありがとな」と言ったんです。それが父の最後の言葉でした。

別れというのは悲しいし、最初は痛いだけ

© 2022 Disney/Pixar
『リメンバー・ミー』 ディズニープラスで配信中
−−ご両親とも小林さんに感謝の言葉を告げて旅立たれたんですね。

小林さん:「ありがとう」と言いたいのはこっちなのに、ね。実家の精肉店がうまくいかなくなって家族が上京して来た後、私は15歳で家族の生活を背負うことになり、大変なこともありました。それでも歌い続けることができたのは、家族がずっとそばにいてくれたからです。

両親もそうでしたが、大切な存在とのお別れでは、ただその存在を心に抱きしめ、「ありがとう」と感謝の思いが胸にあふれます。私にとって大切な存在というのは人間だけではなく、一緒に暮らしてきた猫との別れもそうですし、ともに舞台に立った衣装もそうです。

ただ、両親との別れを穏やかに振り返れるのは、時間が経ったから。別れというのは悲しいし、痛いだけですよね。それでも、時間とともにいつかは思い出に変わります。相手との思い出が心にある限り、その人の魂は生きている。数年前にディズニー映画『リメンバー・ミー』を観て以来、そう考えるようになりました。

−−メキシコの「死者の日」を題材に、「死は別れではなく、思い出を心に留めていれば、大切な人とまた会える」ということを描いた作品でしたね。

小林さん:あの作品を観た後すぐ、亡くなった大切な方たちの名前をすべて紙に書いて仏壇に置き、お線香をあげて手を合わせました。今も時間がある時にはその紙をながめ、一人ひとりのお顔を思い浮かべながら、いろいろなお話をします。なかにし礼さんや新井満さんなどここ数年で紙に書き加えたお名前もあり、さみしい限りですが、『リメンバー・ミー 』では「別れとは、死者の存在を生きている者が忘れること」と語られていました。だから、私がお世話になった方々は誰も死んでないですよ(笑)。

不思議なもので、亡くなった人を思う時って、すごく素直になれますね。例えば、父とは喧嘩ばかりしていた時期もありましたが、そのころの父の姿を思い返すと、愛おしく、可愛く感じたりもします。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
幼いころに母が握ってくれた、塩むすびを食べたいです。母は家業の精肉店を切り盛りしていましたから、とても忙しかったんですね。でも、3時ぐらいになってお腹が空いて来ると、母がおひつのご飯をきゅきゅっと結んで自家製の味噌をつけ、浅漬けのナスと一緒に「はい」と渡してくれました。今のようにどこにでもおやつが売っている時代ではありませんでしたから、その塩むすびがとても楽しみで。母の優しさとともにあの味を思い出します。

新潟県・日和山浜(ひよりやまはま)海岸

小林さんの故郷は新潟市中央区。子どものころによく遊んだ日和山浜海岸はJR新潟駅から車で約15分。砂浜が美しく、磯遊びや釣りを楽しめる。近くには日和山展望台があり、新潟市街や海岸線を一望できる。

プロフィール

歌手/小林幸子さん
【誕生日】1953年12月5日
【ペット】猫のジャコ助(♂・8歳)とコウの助(♂・6歳)
【経歴】新潟県新潟市生まれ。64年、『ウソツキ鴎』で歌手デビュー。79年、『おもいで酒』が200万枚を超える大ヒットとなり、日本レコード大賞最優秀歌唱賞をはじめ数々の賞を受賞。同年、NHK紅白歌合戦に初出場し、以来、34回出場。舞台、テレビドラマ、声優、バラエティなど多方面で活躍し、近年はニコニコ動画などで若い世代からも支持されている。

Information

小林さんの公式YouTubeチャンネル「小林幸子はYouTuBBA!! (ユーチューババア)」。「初めてのスタバ新作! コーヒー飲み比べにチャレンジしてみました!」「初めてのポケモンUNITEをやってみた!【ゲーム実況】」など素顔の小林さんに触れられる内容。「おうち時間の多い皆さんに、ちょっとでも笑ってもらい、テレビなどでは見れない『小林幸子』をもっと知ってもらい、『YouTuBBA』が楽しんでる姿をお届けできたらと思います」と小林さん。
また、昨年小林さんがカバーし、同チャンネルで20万回以上の再生回数を記録したダンス&ボーカルグループ「Da-iCE」の楽曲「CITRUS」の小林幸子バージョンが配信シングルとしてリリースされ、好評だ。
■「CITRUS (シトラスボスVer.)」
配信先リンク https://avex.lnk.to/0318_KS_CITRUS
(スタイリスト/井上正子 ヘアメイク/沖田奈々)
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)