「“小錦”の名に恥じぬよう生きる」 小錦八十吉さん【インタビュー後編】~日々摘花 第28回~

コラム
「“小錦”の名に恥じぬよう生きる」 小錦八十吉さん【インタビュー後編】~日々摘花 第28回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第28回のゲストは、元大関の小錦 八十吉さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、後編です。
前編ではサモアからハワイに移住し、10人の子どもを育てたご両親からの教え、そして、お母様の看取りについてお話しいただきました。後編ではお父様のお葬式への小錦さんの思いや、ご自身の人生観についてうかがいます。

大勢で歌って、踊り、パパの思い出を語り合った「家族葬」

ーー2002年にお母様が他界された時は日本から駆けつけたとうかがいました。お父様の時には、日本とハワイのどちらにいらっしゃったんですか?

小錦さん:2019年の年末にハワイで左膝の大手術を受けた後、1カ月以上ハワイにいた時期だったの。うちはクリスチャンでいつも通っている教会で葬式をやるから、教会が空いている日を待って、葬式を挙げたのは2月の終わり。ハワイでコロナの影響が広がったのは3月初めだから、ギリギリ間に合ったんだ。

パパは20年ほど前に心臓の手術を受けたけど、乗り越えて、亡くなる直前まで元気だった。歩きにくい人が乗るスクーターを借りて一緒にアラモアナに買い物に行ったり、僕や妻が歌うコンサートに来てくれたり、最後の1カ月は毎日のように一緒にいた。

パパのひげを剃りに、床屋さんにも連れて行ったんだ。甥に教えてもらって若者に人気の床屋さんにわざと連れて行ったら、汚い言葉ばかりのラップがかかっていて。戸惑ったんだろうね。ひと言もしゃべらないの(笑)。でも、かっこよく剃ってもらった自分の顔を鏡で見た途端、今でも忘れられないくらいの笑顔になった。ちょうど亡くなる1週間前のことだよ。
小錦さん:その日の翌日か翌々日くらいだったかな。夕飯前のお祈りの時間にパパの声がいつもより少し弱い気がして、姉にお願いして病院嫌いのパパを無理矢理病院に連れて行ってもらったんだ。そうしたら、お医者さんから「昨日あたり心臓発作を起こした跡がある」と言われてびっくり。そんな様子はまったくなかったからね。

亡くなったのは、精密検査を受け、「今すぐ命に関わるような状態ではないから、様子を見ましょう」と診断された翌日。一緒に夕飯前のお祈りをして「おやすみ」と言って別れ、翌朝、姉から「早く病院に来て」と連絡をもらって駆けつけたら、もう息がなかった。姉に聞いたら、病院に連れて行った時も自分の足で歩いていたんだって。

ーーなんと!

小錦さん:最後の最後までつらい顔を見せない人だった。でも、強いだけでなく、楽しい人でもあったんだよ。歌や踊りも大好きでね。だから、「パパのことは明るく見送りたい」と兄や姉たちに話したら、賛成してくれた。サモア人の葬式はしめやかな雰囲気が普通だから、親戚には反対されたけど、「今回だけは口出ししないでほしい」とはっきり言ったよ。下っ端の僕が口ごたえするなんて我が家では許されないこと。だけど、どうしてもパパが喜ぶ式にしたかったんだ。
葬儀は2日間。1日目午前中に地元の教会で家族葬、夜に誰にでも参加してもらえる会を開き、2日目は土葬のセレモニーをやった。家族葬といってもこじんまりしたものではなかったよ。パパはみんなからすごく愛されていたから、パパの兄弟姉妹やいとこはもちろんママの親族も来たし、孫もひ孫もみんな来た。2日間で500人は集まったんじゃないかな。もう誰が誰だかわかんないくらいだよ(笑)。

兄弟、姉妹、孫、ひ孫でクワイア(聖歌隊)を組んで、前々から練習をしてね。当日はそれぞれがパパへの捧げものを持ち寄ったんだ。捧げものといってもモノとは限らないんだよ。歌やスピーチでもいいし、ダンスでも何でもいい。みんなでパパの思い出を話し、歌って踊って。すごく明るく楽しい会になった。パパのメモリアルTシャツも作ってみんなで着たんだ。今日着ているコレ。

供養とは、亡くなった人の魂をもらって日々少しずつ成長すること

ーー素敵ですね! 小錦さんやご家族のお父様への愛が伝わってきます。

小錦さん:伝えても伝えきれないよ。パパは「与える人」だったからね。モノやお金に釣られない人でもあった。ママもそうだったよ。しつけには厳しかったし、ご機嫌を損ねると何日も口をきかないわがままなところもあったけど、家族のまとめ役で、みんなを心から愛してくれた。

「与える」というのはポリネシアの文化でもあるんだ。お客さんが来たら、家族よりも先にごはんを食べさせてあげる。自分より人にあげる。誕生日も自分を祝うのではなく、周りに感謝を伝える。ちょっと日本の「おもてなし」に似ているところがあるよね。

両親に対して「自分にできる限りのことをした」とさっき話したけれど、親に何かをするのは僕にとって喜びでしかなかった。ふたりを思い出すと「ありがとう」の言葉で胸がいっぱいになるよ。

供養というのは、亡くなった人の魂をもらって日々少しずつ成長することだと思う。両親からの教え、思い出。それらを崩さないように生きて行くのが僕の務め。「パパとママの息子だった」と胸を張って言えるよう、恥ずかしくない生き方をしないとね。
ーーこの先、おふたりの教えをどのように活かしていこうとお考えになっていますか?

小錦さん: 1日1日を大事に、そして、「何が大切か」を見失わないようにしているよ。今の僕が大切にしているのは、「小錦」の名に恥じない生き方をすること。相撲を引退してもうすぐ20年。僕は引退後相撲の世界を離れ、タレントやアーティストとして活動していて、NHK Eテレ「にほんごであそぼ」への出演は18年目になった。日本やハワイでの歌の公演も数百回。毎日がすごく面白いし、楽しい。でも、今の僕に仕事があるのは相撲のおかげ。力士「小錦」がいたからなんだ。だから、「小錦」に恥ずかしくない仕事をし、「小錦」に負けないよう頑張らないと、といつも思っている。

じゃあ、なんで頑張るのかといえば、僕を支えてくれている妻と、スタッフがいるから。僕は日本相撲協会を退職後、芸名として「KONISHIKI」を名乗り、2004年に今の妻と結婚した時に戸籍を新たに設けて「小錦八十吉」が本名になった。つまり、「KONISHIKI」はマネジメントを担当してくれている妻を含めチームで作っている名前なんだ。

その「KONISHIKI」を守るのは僕しかいない。だから、相撲の世界を離れて、これまでに経験のないことにチャレンジする時も「KONISHIKI」の価値を下げるような選択はしなかった。例えば、経験が足りなくて自信がないからといって、普通なら10万円もらえる仕事を5万円で受けたら、それは自分の価値を下げたことと同じ。僕の場合は勇気を出して「10万円もらわないとできません」と言って、そのぶん頑張ってきた。

うまくいかなかったこともあるけれど、「失敗」とは思っていないよ。すべて僕自身が相手ときちんと話して判断し、選んだことだから。そして、物事を判断する時にいつも思い出すのは両親の教え。決断するのは僕だけどね。

人生は鉛筆と同じ。そのココロは…

ーー来日されて40年。2022年6月に開かれた記念パーティーは事務所のスタッフの方々だけでなく、現役力士時代の付け人さんなど数十人が全国から集まって準備をされたそうですね。

小錦さん: 会場の飾りつけから受付まで全部やってくれたんだ。のぼりのデザインもみんなが考えてくれた。みんなのおかげでここまで来たって改めて思ったよ。

僕は毎日力いっぱい生きてきたから、今日死んでも、明日死んでも悔いがない。死ぬのが早くても遅くても関係ない、という思いが心の中にはあるんだ。ただ、今はまだやりたいことがあるから、ちょっと死にたくない(笑)。人は目標があるから生きていけるんだな、と思うよ。

ーーこれまでに目標を見失ったことは?

小錦さん:ないよ。だって、目標が見えていないと、進めないじゃない。もちろん、目標には簡単にたどり着けない。転んで立って、転んで立っての繰り返し。人生って鉛筆と同じだな、と思うんだ。

削って書いて、間違えたら鉛筆を逆さにして消しゴムで消す。その試行錯誤が自分という人間として過去に残る。苦しいのは当然。でも、目標さえあれば割と乗り切れるものだよ。
ーー最後に読者に言葉のプレゼントをお願いします。

小錦さん:色紙を頼まれた時はいつも「力」と書くんだ。「力」というのはいろいろな漢字になる。力を合せると「協」、助けるの「助」、勇気の「勇」。「努力」「人力」「引力」など力のつく言葉も多いよね。「力」という字はシンプルでわかりやすいし、足りないものをくっつければ、新しい意味が生まれるのが好きなんだ。

人はみんなウィークポイントを持っている。僕だってそうだよ。こう見えて毎日反省している。今日の取材だって、「もっと違う話をした方がよかった」「こんな言葉の方が伝わったかもしれない」ってきっと反省するよ。

でも、それが今の僕。自分を知り、足りないものをくっつけて磨いていくしかない。得意分野を磨いてさらに良くしていくことも大事だけど、苦手なものから逃げたままでは成長しないから。

ありのままに話すと、僕の場合はこの身体がウィークポイント。生まれつき体が大きくて、相撲取りとしては強みでもあったけれど、ひざを痛めてけがにも泣かされた。引退後は命の危険を感じて胃の手術を受けたり、妻に協力してもらって最高で310キロだった体重を半分に減らしたんだ。だけど、少し気を許すと増えてしまう。

もっと痩せてみたいな、自分は精神力が足りないなと思うよ。でも、健康を考えれば過激なダイエットをするわけにもいかない。自分の弱さを認めて、少しずつ変えていくしかないんだ。ここ数カ月は以前よりも食欲をコントロールできるようになったんだよ。見た目は変わらないれど(笑)。ちょっとずつ、ちょっとずつだね。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
もう一度行きたいのがどこかはわからないけど、散骨場所は決まってるよ。サレバ・アティサノエ(米国籍時代の本名)が生まれ育ったハワイ・ナナクリのビーチと、小錦八十吉(日本国籍取得後の本名)の故郷・両国の隅田川に半分ずつ。僕には子どもがいないから、お墓はいらない。でも、その通りになるかどうかはわからないね。お墓は残された人のためのものだから、女房が望む通りにしてくれたらいい。それ以上のことはないよ。

ハワイ・ナナクリのビーチ

小錦さんが18歳までを過ごしたナナクリは、オアフ島・ホノルルから西へ車で1時間あまり走ったワイアナエ地区にある海岸沿いの町。ナナクリの海はどこまでも続く広い砂浜と、冬と春の間に打ち寄せる高い波が特徴で、「リゾートにはないリアルなハワイが見られる」と小錦さん。生家はビーチから歩いて3分の場所にあった。

プロフィール

タレント・アーティスト(元大関)/小錦八十吉さん

【誕生日】1963年12月31日
【経歴】1982年にハワイ大学付属高校卒業後、高見山にスカウトされ高砂部屋に入門。1987年5月場所後、大関に昇進し、1989年11月場所幕内初優勝。1997年11月場所を最後に相撲界を引退。現在はタレント、アーティスト、ミュージシャンとして活動し、テレビ番組やCMに多数出演。ハワイアンシンガーとしてアルバムも13枚出している。
【ペット】
ゴールデンレトリバーの親子Pani(8歳・♂)とFala(9カ月・♂)
【そのほか】
■Instagram https://www.instagram.com/konishikiyasokichi​
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)