「歳を重ねるごとに若返る」 松本明子さん【インタビュー後編】~日々摘花 第29回~

コラム
「歳を重ねるごとに若返る」 松本明子さん【インタビュー後編】~日々摘花 第29回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第29回のゲストは、タレントの松本明子さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、後編です。
明るく親しみやすいキャラクターでタレントとして活躍し続ける松本さん。前編では香川県高松市のご実家を松本さんに託した亡きご両親への思いをお話しいただきました。後編では、ご両親との別れによるご自身の変化や、死生観についてうかがいます。

大和撫子の母が初めて父に逆らった瞬間

−−松本さんは中学卒業と同時に歌手を目指して高松から上京されました。芸能界に入ることを、ご両親はどのようにおっしゃっていましたか。

松本さん:父は猛反対でした。私は兄と10歳離れた末っ子で、とにかく可愛がって育ててもらい、父とは大の仲良し。兄は私が小学生の時に東京の大学に進学したので、子どものころは陽気でお酒好きな父に連れられて親子3人で夜な夜なバーやスナックに通い、父から「明子、歌え」と言われて歌わされたものです。地元ののど自慢大会や夏祭りで歌っていた時も応援してくれていましたが、自分の目が届かないところに行ってしまうのはやはり心配だったんでしょうね。「絶対にダメ」と言われました。

その時に、いつもは父の言うことに従い、3歩下がってついていく大和撫子の母が「明子の夢を応援してあげてちょうだい」と父を説得してくれたんです。母が父に逆らったのはあの時が初めてだったのではと思います。母は宝塚に憧れていた人だったので、娘に夢を託したのかもしれません。

−−上京後はお父様のご親戚の家から堀越高校に通い、『スター誕生!』に合格して17歳でデビュー。しばらくは芽が出ず、つらい思いもされたそうですね。

松本さん:デビューが決まっても仕事はなくて、翌年にようやく出せたデビュー曲はオリコン週間チャートで最高131位。おまけに19歳の時にラジオの生放送で意味も知らずに放送禁止用語を叫んで、ちょこちょこいただいていた仕事もほとんどがキャンセルに。

両親も相当心配したと思いますが、私の前ではその素振りを見せませんでした。とくに母があっけらかんと「いいじゃない、有名になれたんだから。ピンチをチャンスに変えればいいのよ」と電話で励ましてくれたのはありがたかったです。その言葉のおかげで前向きになって、歌にこだわらず何でもやってみるようになり、バラエティー番組の出演につながっていきました。

健康ランドに2週間泊まり込み遺品整理

−−松本さんを見守り続けたご両親が他界されて15年以上。今はおふたりの存在をどのように感じていらっしゃいますか?

松本さん:父と母を立て続けに亡くし、しばらくは両親のことを思い出すのもつらかったけれど、今は心の中にふたりの存在があり、いつも一緒にいるような感覚です。これは実家じまいをした影響もあるかもしれません。

先ほど家の売却までのお話をしましたが、実はそれで一件落着とはならず、実家じまいには最後にもうひとつ山場がありました。家財や遺品の整理です。買い主がなるべく早く住みたいと希望されていたので、契約から引き渡し期限までの3カ月の間に東京と高松を行き来し、最後の2週間は地元の健康ランドに泊まり込んで作業をしました。

引き出しや段ボールを開け、先祖が残した日本刀などの骨董品から100着以上の母の着物、2000冊以上あった父の本などを一つひとつ整理。母の着物を昔からの知り合いの高松のスナックのママさんにもらっていただいたり、「衣装として使ってください」と劇団「WAHAHA本舗」に送ったりもしました。

私のものも大量にあったんですよ。小学校で使ったリコーダーやハーモニカからレインコート、中学3年生で書道コンクールに応募した時の作品と参加賞まで母は何から何まで取っておいてくれて、親の愛を感じると同時に笑ってしまいました。

時間も心の余裕もなく、これはと思うもの以外は捨ててしまったので、処分した家財や遺品は2トントラック10回分。処理料金は1回10万円で、締めて100万円です。後に聞いたのですが、遺品や家財の整理は専門の業者さんにも頼めるそうですね。

「知っていれば、あんなに苦労しなかったのに」とも思いましたが、振り返ってみれば、あの時間はかけがえのないものでした。一つひとつのものを手に取り、整理していくことによって、両親に可愛がってもらったんだな、大切にしてもらえたんだなとあらためて感じました。父と母の存在が心の中に取り込まれ、ようやく思い出とさようならできた気がします。

50代、コンサートを開きキャンピングカーの副業も

−−松本さんは「死」というものをどう捉えていますか?

松本さん: 若いころはやはり、「死」は遠くて怖いものでした。小学生時代に祖父が亡くなった時、「人は死んだらどうなるんだろう」とおそろしく感じ、「どうか自分だけは死にませんように」と祈ったことを覚えています。

ところが、両親を亡くしたころから、「死」を怖れる感覚が昔より薄らいできました。身近な人の死を経験することが、だんだん自分と死後の世界の距離を縮めていくというか……。両親との別れは、「生」と「死」をつなげ、「死」の怖さを和らげてくれるものでもあったのかもしれません。

私も40代、50代と年齢を重ね、時折、「自分が元気でいられるのも、あと25年くらいかな」と考えることもあります。だけど、しんみりした気持ちにはなりません。むしろ、人生には限りがあると意識することで「一日一日を大切にして、やりたいことをどんどんやらなきゃ」と元気になってきましたね。年齢を重ねるごとにエネルギーが湧いてきて、心が若返っていくような感じです。
−−実際、2022年1月にはご自身の企画で、森尾由美さんや布川敏和さんなど同世代の歌手の皆さんとデビューして初めてのコンサートを開かれたり、副業で軽自動車のキャンピングカーレンタルと始めたりと、新しいことにもどんどん取り組まれていますね。

松本さん:コンサートは新型コロナウイルスの自粛期間中に「少しでもおうち時間を楽しんでもらえたら」と「#アイドルうたつなぎ」という歌のバトンリレー企画を発信したことがはじまりで開催しました。レンタル事業もコロナ禍がきっかけ。仕事が次々とキャンセルになって先行きに不安を感じ、事務所の社長さんに「副業をさせてください」と直談判して始めたんです。

コロナ禍はまだ続いていて、大変な出来事です。ただ、自粛期間中に自分に向き合い、自分に何ができるのかを考えた経験は私を成長させてくれたと思っています。
−−最後に、読者の皆さんに言葉のプレゼントをお願いします。
松本さん:「幸せは叶えること」という言葉を贈ります。芸能界でデビューして40年。さまざまな才能を持った方々とご一緒してはそのエネルギーに刺激を受け、その場に自分がいさせてもらえることを幸せだと感じています。

先日も爆笑問題さんやサンドウィッチマンさんといった最前線で活躍されているお笑い芸人さんたちと同じ舞台に立つ機会がありました。ふと、皆さんのこの幸せなオーラはどこから出ているんだろうと考えた時に、夢を持ち、一歩一歩自分の力で叶えてきたからだと思ったんですね。

皆さんそれぞれ挫折を繰り返しつつも、夢をあきらめず、日々を積み重ねてきたからこそ、幸せな今がある。幸せというのは自分で叶えていくもので、私自身もそうありたいと思っています。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
義母が作ってくれる筑前煮が食べたいです。義母とは結婚以来同居していて、もう25年近くになりますが、毎年欠かさず私の誕生日には私の大好物の筑前煮とお赤飯を用意してくれるんです。ていねいに一つひとつの野菜の煮る時間を変えて、しっかりと煮染めた筑前煮のおいしいこと、おいしいこと。幸せをかみしめる瞬間です。

筑前煮

筑前煮は、もともとは現在の福岡県北部・西部にあたる筑前地方の郷土料理。一般の煮物と異なり、煮込む前に油で炒めるのが特徴。油で炒めることによってコクが出るだけでなく、具材の表面が油でコーティングされ、煮る時にアクが出にくくなる。

プロフィール

タレント/松本明子さん

【誕生日】1966年4月8日
【経歴】香川県出身。1982年オーディション番組「スター誕生!」に合格し、翌年、歌手としてデビュー。その後、元祖「バラドル」として人気バラエティー番組「DAISUKI!」「進め!電波少年」(日本テレビ系)などに出演し、人気を確立。女優としても活躍している。
【趣味】料理、節約
【そのほか】副業として「軽キャンピングカー」専門のレンタル業も手がけている
オフィスアムズ https://officeams.com/

Information

松本さんの著書『実家じまい終わらせました! 大赤字を出した私が専門家とたどり着いた家とお墓のしまい方』。実家じまいを先延ばしにし、大赤字を出してしまった松本さん自身の体験談を具体的に語るとともに、3人の専門家に「空き家になった実家の後始末」「家財や遺品の整理」「墓じまい」について松本さんがそれぞれ取材した内容を対談形式でまとめた実用書。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)