「『なごり雪』の季節に旅立った夫」シンガーソングライター・イルカさん【インタビュー前編】~日々摘花 第32回~

コラム
「『なごり雪』の季節に旅立った夫」シンガーソングライター・イルカさん【インタビュー前編】~日々摘花 第32回~
明るく、温かな人柄で親しまれ、デビュー50周年を迎えた現在も毎年コンサート活動で全国を飛び回るイルカさん。代表曲『なごり雪』をヒットさせた音楽プロデューサーであり、夫として二人三脚で歩んだ神部和夫さんの病と向き合った20年間を超えて、歌い続けています。前編では神部さんと過ごした日々の思い出と別れについてお話しいただきました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

「一緒に歌わないか」がプロポーズの言葉に

−−イルカさんは神部和夫さんと21歳で結婚されたそうですね。

イルカさん:初めてつき合った男の子と結婚したんです。今どき珍しいでしょ(笑)。出会ったのは18歳の時。所属していた女子美術大学フォークソング同好会に早稲田大学フォークソングクラブの部長だった彼がコーチとしてやってきたのが始まりでした。

3歳年上の彼はフォークソンググループ「シュリークス」のリーダーとしてすでにレコードデビューをしていました。学生コンサートを企画・運営したり、テレビ局でアルバイトもしていて、ものすごく大人に見えたものです。風貌も声も優しく、物腰がおっとりしているので、私たちは彼のことを「お母さん」と呼んでいました。

一方、当時の私は中学から女子校で、ジョン・レノンとの結婚を夢見ている、浮世離れしたロック少女。「お母さん」から誕生日に電話がかかってきてお好み焼きやらアイスクリームを次々とおごってもらったり、プレゼントにセーターやぬいぐるみを買ってもらっても、コーチとしてみんなにそうしているんだと考えて、「親切な人だな」と思っていたんです。

−−いやいや、さすがにそんな親切な人は……。

イルカさん:普通なら、そう思いますよね。でも、彼はなかなかの「策士」だったんです。出会って1年経ったころに「卒業したら、一緒に歌わないか」と言われ、「うん」と返事をしたら、思わぬ展開に。振り返ってみれば、それが彼のプロポーズの言葉でした。

美術短大卒業と同時に「シュリークス」に加入し、翌年に結婚。当時は自分が「イルカ」としてひとりでステージに立つ日が来るとは想像していませんでした。そもそも、私は「歌を仕事にしたい」と思ったことがないんですよ。父がプロのサックス奏者で芸能界の厳しさを知っていましたし、人前に出るのがそんなに好きではなかったので、「音楽は趣味で続けるのが一番」という考えでした。「シュリークス」に加わったのは、ただ彼と一緒に歌えたら楽しいだろうなと思ったからです。

でも、夫は私より1枚も2枚も上手でした。彼にはもともとプロデューサー志向があって、後に聞いたところによると、初めて誕生日プレゼントをくれたあの日にはすでに私をアーティストの卵として見込み、「いつか自分がプロデューサーとしてイルカの才能を花開かせたい」という強い意思を持って結婚したそうです。

私のことを誰よりもわかっていた彼は、いきなりソロで歌わせるのではなく、「シュリークス」に迎えて3年ほど「訓練期間」を与えた後に、グループを解散。「お前はひとりで泳げ」と言ってお膳立てをすべてして、私を「イルカ」としてソロデビューさせました。

夫が最初にソロデビューの話を切り出した時、私は泣きながら拒否しました。彼ほどの才能を持った人に歌うことをやめてほしくなかったからです。でも、夫は一度決めたことを決して曲げない人。最終的には私が折れました。

「私の全部をあげますから、どうぞ素材として使ってください」とこの時、私は言いました。私はただ夫と一緒に歌っていたかった。でも、夫が人生のすべてを賭けてまで「イルカ」という私をプロデュースしたいと言ってくれるのであれば、「もう、私はあげます」って思ったんです。

夫の介護で旭川・東京の2拠点生活を7年間

−−74年のソロデビュー以来、神部さんは音楽プロデューサー兼個人事務所「イルカオフィス」の社長としてイルカさんの活躍を支えました。その裏側で、20年以上もパーキンソン病を患っていらっしゃったそうですね。

イルカさん:最初に夫の体調がおかしくなったのは、1986年頃でした。左手薬指の痙攣が止まらなくなったんです。すぐに病院に行き、何度も検査を受けましたが、当時はパーキンソン病のことが今のようには知られておらず、病名がわかったのは症状が出てから3年ほど経ったころ。お医者さんには「すぐに命にかかわる病気ではない」と言われ、当時はまだオフィスにも行っていました。

ところが、ひたひたと忍び寄るように病気が進行し、夫が私と一緒に仕事に出かけたのは、91年から続けさせていただいているラジオ番組『イルカのミュージックハーモニー』(ニッポン放送)の初めての打ち合わせが最後になりました。夫は24時間365日を仕事に捧げて生きている人でしたから、自分の身体が日に日に動かなくなり、現場から離れざるを得なくなっていったのは、彼にとって相当厳しく、つらいことだったと思います。

夫の介護はしばらくの間家族で協力しながら自宅でやり、途中からはヘルパーさんにも来ていただきました。99年に夫が北海道・旭川のリハビリテーション病院で療養生活に入ってからは、私も旭川に部屋を借り、旭川・東京を往復する生活を7年間続けました。

仕事を辞めて、介護に専念することも考えましたし、最初のうちはそうすべきと思い込んでいたんですよ。ところが、そんな話をすると、ふだん声を荒げることのない夫がものすごい剣幕で怒るんです。「そんなことを僕は望んでいない。そんな時間があったら、一曲でもいい曲を作れ」って。

もちろん、心の底には「いつもそばにいてほしい」という思いもあったはずです。でもそれ以上に夫には、自分がイルカを見つけて育て、レールを敷いたという誇りがありました。

私がそのレールをつなぎ、イルカが水平線の向こうまで泳いでいくことが彼の生きている証になる。だから、夫のために私にできることはただひとつ、歌を作り、コンサート活動も続けて、イルカの命を絶やさないこと。そんな風に思っていました。

イルカのことはすべてお見通しだった夫の「最後の企て」

−−神部さんは2007年3月21日に59歳で亡くなりました。

イルカさん:夫は少しずつできることを失い、晩年は話すこともできなくなりましたが、私や息子の冬馬の歌をCDで聴かせると、目の輝きで応えてくれ、涙を流すこともありました。最後の最後まで音楽だけは彼に残りました。

息を引き取る直前、夫は目をギュッとつむることを3回繰り返しました。ものを言えぬ彼からの「さようなら」の言葉でした。

『なごり雪』の季節に夫は旅立ちました。覚悟はしていたはずでしたが、いざ別れの時を迎えると、悲しみは想像以上で、しばらくは歌が歌えませんでした。体から力が抜けてしまって、声が出ないんです。

歌えるようになったのは、夫の四十九日に開いた「送る会」がきっかけでした。その場で私が歌わないのは不自然だなと思いました。それでもやはり自信が持てなかったのですが、父や息子、当時8歳だった孫娘やイルカのコンサートツアーのメンバーが「一緒に歌うよ」と言ってくれたんです。リハーサルの日、気づいたら私はマイクの前で歌っていました。そして、たくさんのフォーク仲間たちが彼のために歌ってくれる事になりました。

「送る会」を開いたのは、生前、夫がふと漏らした「僕が死んだら、派手に送ってね」という言葉が胸にあったからです。たくさんの友人や仕事仲間がいたにもかかわらず、病気のためにひっそりと暮らしてきた夫に代わって、彼らしい「送る会」にしなければ、という思いが私に力をくれました。

夫のことですから、私のことはすべてお見通し。だから、あの言葉を言ったのではと思わずにいられません。またしても彼の企てに乗せられました。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
一カ所だけ選ぶなら、インドネシアのバリ島です。42歳の時に生まれて初めてプライベートで海外にひとり旅をしたのがバリ島でした。一般のご家庭にホームステイさせてもらい、畑を耕し、神さまに祈りを捧げながら、自然と一体になって暮らす島の人たちの生き方に心を打たれました。以来、毎年ひとりで訪ね、バリ島には親しい家族がたくさんいます。ここ数年はコロナ禍で行けず、直接会えないのがさみしくて。早くみんなに会いたいです。

バリ島バングリ村:デワジ翁のご家族との写真

1992年から毎年のようにバリ島中央部にあるバングリ村を訪れている。滞在中は伝統影絵芝居「ワヤン・クリッ」の影絵師で僧侶だった故・デワジ翁宅で大家族とともに暮らし、親交を深めてきた。写真は2011年、デワジ翁の葬儀に参列した際にご家族と。
バリ島デワジ翁の奥様とイルカさん

プロフィール

シンガーソングライター/イルカさん

【誕生日】1950年12月3日
【経歴】東京都出身。女子美術大学在学中からフォークグループを結成。夫の神部和夫さんをリーダーに結成された「シュリークス」加入を経て、74年ソロデビュー。翌75年『なごり雪』が大ヒット。1980年、武道館コンサートを行い、以後4年連続開催。歌手活動のほか、ラジオパーソナリティ、絵本やエッセイの執筆、着物のデザイン・プロデュースなども手がける。IUCN国際自然保護連合親善大使も務めている。
(取材・文/泉 彩子  写真/刑部 友康)