「『料理の神様』が手を差し伸べてくれた」 「オテル・ドゥ・ミクニ」オーナーシェフ 三國清三さん【インタビュー前編】~日々摘花 第13回~

コラム
「『料理の神様』が手を差し伸べてくれた」 「オテル・ドゥ・ミクニ」オーナーシェフ 三國清三さん【インタビュー前編】~日々摘花 第13回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第13回のゲストは、「オテル・ドゥ・ミクニ」オーナーシェフの三國清三さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
フランス料理界の重鎮でありながら、常にチャレンジを続け、2020年には「ユーチューバー」としてもデビュー。気さくなキャラクターで若い世代にも親しまれています。
前編では、貧しい環境に生まれ、「神様は不平等」と感じながらも、料理人を志して不屈の精神で前に進んだ修業時代のお話や、師匠との出会い、そして、シェフとして独立後に訪れたお父様との別れについてお話しいただきました。

父に捧げた、最初で最後のフルコース

ーーご出身は北海道・増毛町ですね。。

三國さん:石狩湾を挟んで小樽市の対岸にある、古くからの漁師町です。「海猫が鳴くから ニシンが来ると」で始まる「石狩挽歌」の一番の歌詞は、増毛の情景を描いたものと聞いています。この歌を書いたなかにし礼さんも北海道出身。増毛町との縁も深く、「石狩挽歌」はもともと「増毛挽歌」だったそうですよ。

かつて増毛ではニシンがよく獲れました。父もニシン漁で生計を立て、そこそこの暮らしをしていたようです。ところが、僕が生まれる前の年からニシンがパタリと獲れなくなり、無一文になりました。借金のかたとして家を取られ、僕が物心ついた時には貧乏のどん底。父が手漕ぎの小さな舟で獲ってきたアワビやウニを獲り、母が小さな畑を耕してどうにか7人の子どもたちを養ってくれました。

若いころの父は腕の立つ漁師として評判だったようです。それだけに、やり切れない思いがあったのでしょう。父の後半人生は酒に溺れ、母に八つ当たりすることも多くて、母は相当苦労をしたはずです。だから、僕はずっと母が父のことを憎んでいると思っていました。

ところが、父が亡くなって荼毘に付される時、母が泣き崩れたんです。「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープンして5年経ったころです。当時の僕はまだ独身で、「お袋はあれほど親父に苦労させられたのに」と不思議でたまりませんでした。でも、結婚し、ひとり娘も社会人になった今、母の気持ちがよくわかります。母は父のことが本当に好きだったんでしょうね。

ーーお父様が『オテル・ドゥ・ミクニ』にいらっしゃったことはありましたか?。

三國さん:その機会はありませんでした。父は晩年心筋梗塞を患い、増毛から一歩も出ませんでしたから……。亡くなる1年前、父が失った増毛町舎熊(しゃくま)の土地を僕が買い戻し、兄が家を建てて、両親にプレゼントしました。増毛で一番海に近い場所です。

親孝行のつもりでしたが、父は引越しに最後まで抵抗し、引きずるように連れて行ったと母や姉に聞きました。意地があったんでしょうね。あのときの父を思うと、今も心が痛みます。

ただ、一度だけその家に店のスタッフを伴って帰郷し、両親にフルコースを楽しんでもらいました。父は寝たきりでしたが、姉が台所から一皿ずつ父の部屋へ運び、どのお皿も「おいしい」と言って残さず食べてくれました。それだけは良かったかな、と思います。

食べていければ何でも良かった。最初はね

ーー三國さんが故郷を離れたのは、15歳の時だったとか。

三國さん:うちは経済的余裕がなくて、きょうだいは全員中卒です。でも、当時はすでにクラスのほとんどが高校に進学する時代。どうしても学校に通いたくて担任の先生に相談したところ、札幌市のお米屋に住み込みで働きながら、夜間の調理師学校に通わせてもらえることになりました。

「なぜ料理の道に?」とよく聞かれますが、食べていければ何でも良かったんです。最初はね。でも、お米屋さんのお姉さんが夕食に作ってくれた、黒いソースのかかったハンバーグを食べた瞬間に「料理人になりたい」と心に決めました。僕は自然豊かな場所で育ち、新鮮な素材のおいしさや、「甘さ」とか「酸っぱさ」は味わっていたけれど、そのドロリとした黒いソースの「甘さ」と「酸っぱさ」の混ざり合った味は初めてでした。だから、衝撃を受けたんです。

調理師学校卒業後は、お米屋さんのお姉さんに「札幌でハンバーグが一番おいしい」と教わった札幌グランドホテルに皿洗いのパートとして潜り込みました。半年で正社員に登用され、それからは寮にはほとんど帰りませんでした。仕事が上がっても調理場に残り、明け方まで料理の練習をしていたからです。みんなが寝ている間に励むのですから、当然、腕は上がります。入社3年目にはホテルで一番のレストランで責任のある仕事を任されていました。

当時は周りとしょっちゅうぶつかっていましたね。いい気になっていましたし、同世代と自分の境遇を比べ、「神様は不公平で、理不尽だ」という思いも心の底にありました。そんな僕を見かねたのでしょう。ある時、先輩が「いい加減にしろ。東京には帝国ホテルという日本一のレストランがあって、そこには総料理長の村上信夫さんという『料理の神様』がいるんだ」と言ったんです。

先輩の言葉は僕をいさめるためのものでしたが、僕は「料理の神様」という言葉に反応して村上料理長に会いたくなり、料理課長に談判。村上料理長と旧知の仲だった札幌グランドホテル総料理長の紹介状をいただいて18歳で上京しました。

20歳の誕生日に味わった、人生初の挫折

ーーものすごい行動力です!

三國さん:希望にあふれていましたね。ところが、20歳の誕生日、僕は人生初の挫折を味わいました。オイルショックの影響で正社員としては採用されず、「正社員待ち」のパートとして来る日も来る日も鍋洗いをする日々。1年目は元気でしたが、2年目からは精神的にきつく、20歳を迎えてさすがにもう別の仕事を探さなければと思いました。

でも、どうせ辞めるのなら、少しでも自分の痕跡を残したい。帝国ホテルのすべての調理場の鍋をピカピカに磨こうと考えて、翌日から毎日、仕事上がりに18のレストランの鍋を洗って回りました。

そんな日が2カ月続いたころ、村上料理長から突然呼ばれ、「社長から650人の料理人の中で一番腕のいい料理人をスイスのジュネーブにある大使館の料理長にと言われ、君を推薦しておいた。年明けすぐに行けるよう、準備しておきなさい」とお話がありました。

驚きましたよ。津軽海峡を超えるだけでも精一杯だったのに、海外なんて想像したこともありませんでしたからね。でも、その瞬間、増毛の厳しい寒い光景が、ひもじさとともに頭に浮かんだんです。「もう後戻りはしたくない」と思い、とっさに「はい」と言ってしまいました(笑)。

帝国ホテルで修業した2年あまり、調理場で僕が料理を作る機会はありませんでした。それなのに、なぜ村上料理長が僕を推薦してくれたのか。不思議でたまらなかったのですが、のちに村上料理長のご著書『帝国ホテル厨房物語』でその理由を知りました。ご著書には「私が認めたのは、塩の振り方だった」と書いてくださっています。口にはされませんでしたが、村上料理長は調理場での僕の動きをどこかで見てくれていたのでしょう。

疲れ切って、身も心もボロボロで、挫折の苦さを味わった20歳の誕生日。自分に神様なんていないと思いました。でも、「料理の神様」が手を差し伸べてくれたんです。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
小学生のころのおやつだった、ホヤです。時化(しけ)が続いて漁に出られないと、凪が来るのを見計らい、朝3時、4時に起きて、父と一緒に浜辺に魚介類を拾いに行くんですよ。すると、ホヤがたくさん打ち上げられていましてね。海水で洗ってかぶりつくと、甘さと、内臓の苦みと酸っぱさ、海水のしょっぱさが混ざり合って、何とも言えない味なんです。ただし、ホヤは鮮度が命。活きがいいのを選ばないとダメですよ。

ホヤ

20年以上前から「食育」に取り組み、2000年から全国の小学校で「味覚の授業」を行っている三國さん。「食育」に関心を持ち始めた当時、味覚の4つの基本は「甘味」「酸味」「塩味」「苦味」であり、人間の味覚の発達は12歳ごろがピークだと専門家から学んだという。

「その時ふと気づいたのですが、この4つの味に『うま味』を加えた『五味』すべてがホヤには詰まっている。そんな素材はほかに思い当たりません。少年時代は食べるものにも不自由する生活でしたが、知らず知らずのうちに味覚が鍛えられていたんですね」(三國さん)。
※写真はイメージです。

プロフィール

「オテル・ドゥ・ミクニ」オーナーシェフ/三國清三さん

【誕生日】1954年8月10日
【経歴】北海道・増毛町生まれ。中学卒業後、札幌グランドホテル、帝国ホテルにて修業。1974年、在スイス日本大使館の料理長に就任。フランス、スイスの複数の三つ星レストランで修業後、1982年に帰国。1985年、東京・四ツ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープン。
【音楽】徳永英明「レイニーブルー」/矢沢永吉「時間よ止まれ」「チャイナタウン」/八代亜紀「舟唄」/セルジオ・メンデス「マシュ・ケ・ナダ」
【映画】「ロッキー」シリーズ/「男はつらいよ」シリーズ/「駅 STATION」(主演・高倉健)
【そのほか】2013年11月、フランスの食文化への功績が認められ、フランソワ・ラブレー大学にて名誉博士号を授与される。2015年には、ナポレオン・ボナパルトにより1802年に創設されたフランスの最高勲章「レジオン・ドヌール勲章シュバリエ」を日本の料理人として初めて受勲。ラグビーワールドカップ2019組織委員会顧問を務めるなど幅広い分野で活躍中。

Information

「シェフ三國の簡単レシピ」と題し、動画投稿サイト「YouTube」にレシピ動画を投稿している。2021年5月、新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言下で、家での時間を少しでも楽しんでもらえるようにと始めた。毎日欠かさず発信し、2021年7月現在、更新回数は400回以上。「じゃがいものピューレ」「きゅうりの冷たいスープ」といった、フランス料理をベースにした本格的な味でありながら、身近な食材を使って短時間で作れるレシピを紹介し、三國さんのチャーミングなキャラクターも話題。チャンネル登録者数はもうすぐ16万人に達する勢い。
(取材・文/泉 彩子  写真/刑部 友康)