「心の中にいつもいた、海が好きな親父」宮本和知さん【インタビュー前編】~日々摘花 第25回~

コラム
「心の中にいつもいた、海が好きな親父」宮本和知さん【インタビュー前編】~日々摘花 第25回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第25回のゲストは、元プロ野球選手(投手)の宮本和知さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
元読売巨人軍(ジャイアンツ)投手で、現役引退後もスポーツキャスターや野球解説者として活躍し、明るいキャラクターが人気の宮本和知さん。2019年には巨人投手総合コーチとして22年ぶりに現場復帰し、2022年からは球団社長付アドバイサーを務めるなど野球界に貢献し続けています。前編では、野球に打ち込む宮本さんを見守り続けたお父様との思い出と別れについてお話しいただきました。

故郷・下関での中学時代、毎朝父と走ったランニングコース

−−これまで経験された「永遠の別れ」の中で、とりわけ心に残っているのはどなたとの別れでしょうか。

宮本さん:親父です。僕は山口県下関市で生まれ育ちましたが、親父は佐賀県唐津市出身。漁師の家の末っ子として生まれ、15歳で漁に出て、漁師を一生の仕事にしたいと望んでいたようです。ところが、漁場環境の変化で将来にかげりが見え、家族を養うために下関市の三井金属鉱業彦島製錬所(現彦島製錬)の臨時工に。働きぶりが認められて正社員になり、僕がジャイアンツに入団した年には現場のトップにまで昇進しました。

物静かな人で、先頭に立って家族を引っ張っていくような感じではなかったですね。「やると決めたことは、やり通せ」というのが親父の教え。中途半端なことをすると叱られましたが、本当に優しかったです。中学生のころは、親父と兄、僕、弟の4人で毎朝走っていました。親父は3交代制勤務で疲れていたはずですが、僕が「走る」と言ったから、朝5時に起きてつき合ってくれていたんです。下関市南端の彦島大橋のあたりを通って西山海水浴場までがお決まりのランニングコースでした。僕がプロ野球選手になれたのは、当時培った基礎体力のおかげだと思っています。

親父もおふくろも、子どもたちに口出しはせず、やりたいことをやらせてくれました。僕は小学生時代はサッカーに夢中になり、中学に入ってから野球を始めたのですが、「サッカーはどうしたんだ」と言うこともなければ、「頑張れ」と励ますわけでもなく……。いつも陰から僕を支えてくれました。

それだけに、僕の心の中にはいつも親父がいて、「親父を喜ばせたい」という思いがありました。野球選手を目指したのも、親父やおふくろの存在が大きかったです。僕は勉強が得意ではなかったので、どうすれば親孝行できるんだろうと考えた時に、野球しかなかったんです。だから、高校卒業後、社会人野球の選手として川崎製鉄に入社した時は、少し肩の荷が降りたような気持ちでした。

当時の社会人野球チームの強豪は大手企業ばかり。僕がどんなに勉強を頑張っても就職の望みはない企業に、野球で入ることができた。親父もおふくろも安心してくれたと思うんですよね。「あいつは野球しかできない。でも、野球で就職できた」ってすごく喜んでくれました。

8歳の娘を抱えて離婚する僕に、父がくれた言葉

−−宮本さんは社会人野球を経て、21歳の時にジャイアンツに入団。左腕エースとして活躍される姿を見て、お父様はどのようにおっしゃっていましたか。

宮本さん:「お父さんが喜んでいたよ」「あなたを応援していたよ」とおふくろから伝え聞いてはいましたが、本人からは連絡もほとんどなかったです。一方で、僕が困った時には真っ先に手を差し伸べてくれました。

僕は長女が8歳の時に最初の妻と離婚しましたが、当時は現役の選手でしたから遠征などで家を留守にすることも多く、まだ小さい長女をどう育てていけばいいか悩みました。最終的に出した結論は、両親に上京してもらって一緒に暮らすこと。すでに還暦を超えた両親にとって住みなれた場所を離れるのは大変だったと思います。それにもかかわらず、親父は電話で離婚を報告した僕に「大丈夫か? そっちに行くぞ」と自分から言ってくれました。

一緒に暮らしはじめてからは、親父が家計の管理もしてくれました。親父は書くことが好きで、帳簿もこまめにつけるんですよ。僕は両親が上京した翌年にジャイアンツを引退し、テレビでの活動を始めましたが、野球選手時代はお金に無頓着で……。親父のおかげで貯金ができました。

帳簿をつけながら、「いやあ、すごいなあ。野球選手は」なんて親父が言うこともたまにありました。そう聞くと、両親にもっと何かをしたいという気持ちが湧いてきて、静岡県御殿場市に別荘を買いました。親父は海が好きだったので、御殿場ならぴったりと思ったんです。

富士山を眺められる露天風呂を作り、庭も約360坪あって、親父はそこで趣味の畑仕事ができました。「こんな贅沢なお風呂、いらないのに」と言いつつ、両親でよく出かけていましたね。その別荘を買って5、6年経った2005年5月ごろから親父の体調が悪くなり、両親は故郷の下関へ。その後、親父は入退院を繰り返し、2007年に肝臓がんで亡くなりました。74歳でした。

「おふくろって、そんなに親父が好きだったんだ」

−−宮本さんが最後にお父様とお会いになったのは?

宮本さん:亡くなる1カ月ほど前だったかな。その時は親父の意識が朦朧としていて、会話ができる状態ではありませんでした。ただ、以前から中国地方や九州への出張がある時にはできるだけお見舞いに行っていろいろな話をし、親父が亡くなった後のこともきちんと話せていました。

残された母が困らないよう、公証人の方に病院まで出向いていただいて公正証書遺言を作成してもらったりもしたんですよ。これは僕が親父に提案したのですが、「こういうことはちゃんとしておかないといかんな」とすんなり理解してくれ、ありがたかったですね。仲の良かった家族が相続でもめるという話も聞きますから。

親父の葬儀には、プロ野球関係者やテレビ局の方々も来てくれました。土地柄もあってそれなりの規模でしたが、よそよそしい雰囲気ではなかったです。親父の友人や知人がたくさん集まってくれて、まるで親父の同窓会のようでした。皆さんのお顔を見て「あのおじさん、よくうちに来て飲んでいたな」などと思い出したりして、僕自身も懐かしかったですね。葬儀ですから、もちろん悲しい場ではあるのですが、暗い顔ばかりしていても親父は喜ばないでしょうから、温かな雰囲気で親父を見送ることができてよかったなと感じています。

親父が亡くなって一番ショックを受けたのは、やはりおふくろでしょうね。離れて暮らしているので、短時間でもできるだけ会いに行くようにしています。たまに実家に泊まると、毎朝ちゃんと仏壇に手を合わせ、お経をあげているんですよ。もともと仲の良い夫婦ではありましたが、おふくろってそんなに親父が好きだったんだ、と新鮮に感じました。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
炊きたての白いごはんと、おふくろの味噌汁。これ以外は何もいらないですよ。味噌汁の具は豆腐とえのき、さつまいも。具だくさんで、やけどしそうになるくらい熱々なのがおふくろの味なんです。なんか、好きでしたね。僕の源になっている気がします。

浅草のおみそ汁専門店「MISOJYU(ミソジュウ)」

東京・浅草の雷門の近くある、日本でも珍しいお味噌汁の専門店。食事の“主役”として作られたお味噌汁は、有機野菜を中心にからだに健康的なものが豊富で具だくさんです。お味噌汁単品のほか、身体が喜びそうなセットメニューも楽しめます。
MISOJYU
住所:東京都台東区浅草1-7-5
営業時間:午前8時~午後7時

プロフィール

元プロ野球選手/宮本和知さん

【誕生日】1964年2月13日
【経歴】山口県下関市出身。1984年、ロサンゼルスオリンピック日本代表チームに選ばれ、金メダル獲得。同年、読売巨人軍に指名され、翌年入団。1997年に選手を引退するまでの間、3回胴上げ投手に選ばれるなど数々の実績を残した。現役引退後はスポーツキャスターなどで活躍。2019年より巨人投手総合コーチとして22年ぶりに現場復帰。2022年からは球団社長付アドバイサーを務めるほか、女子野球アドバイザー、ジャイアンツアカデミー校長、スポーツキャスターなど多方面で活躍中。
(取材・文/泉 彩子  写真/川島 一郎)