最澄(さいちょう)は天台宗の開祖。~彼の生涯や日本に与えた影響とは~

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最澄(さいちょう)は天台宗の開祖。~彼の生涯や日本に与えた影響とは~
最澄とは、天台宗の開祖として有名な人物です。密教とも深い関わりがある最澄は、日本における仏教に多大な影響を与えた人物でもあります。日本で最も多く執りおこなわれている仏式葬儀は、彼の影響を少なからず受けています。本記事では、最澄の生涯や密教と天台宗との関わり、彼が今の日本に与えた影響をお伝えします。

最澄の生涯

天台宗の開祖として有名な最澄(さいちょう)。まずは、彼の生涯を誕生から順を追って紹介します。

誕生秘話

最澄の誕生に関しては諸説あります。最有力視されているのが、767年に近江国(おうみのくに/現在の滋賀県)の生源寺(しょうげんじ)付近で生まれた説です。子どもに恵まれなかった両親が、比叡山(ひえいざん)の神様にお願いして授かったのが最澄だそうです。誕生後、最澄は「広野(ひろの)」と名付けられました。

出家と比叡入山

最澄は12、13歳頃に出家し、近江国の国分寺に入門し、行表(ぎょうひょう)法師の弟子となりました。14歳で「最澄」という名をもらい、19歳のときに東大寺で正式な僧になります。それから数年、比叡山にこもって修行するようになり「願文(がんもん)」を記しました。願文とは、修行などをする際の決意や、神様に対する願いなどを記す文章のことです。

最澄が記した願文には、「仏になるための教えを体解(たいげ)するまで山を下りない」といった、強い決意が記されていました。最澄は、若い頃から既に高い目標を持っていたのです。

遣唐使として中国へ

比叡山で修業を続けていた最澄は、797年に桓武天皇(かんむてんのう)の「内供奉(ないぐぶ)」に選ばれました。内供奉とは、天皇に仕えてその安寧を祈り、看病をしたり、僧侶の集まりの時にお経を読んだりする役職のこと。その後、今でいう留学生にあたる「還学生(げんがくしょう)」に選ばれ、804年に「遣唐使(けんとうし)」として中国に派遣されました。

遣唐使とは、7世紀から9世紀の中国の王朝・唐への使節団員のことです。当時の最先端である中国の文化などを日本に持ち帰ることを目的に組織されました。最澄ら遣唐使は、4隻の船に分かれて中国に向かうも、暴風雨で船は難航。最終的に中国にたどり着けたのは、4隻のうち2隻だけでした。

最澄は中国で天台教学を学んだ他、禅の教えや密教の伝法を受け、数か月後に日本に帰国しています。

天台宗を開くまで

最澄が帰国した日本は、桓武天皇が病に伏せている危機的な状況でした。このとき、最澄が中国から持ち帰った密教が人々から注目されます。

密教とは、仏教の一つの考え方で、大日如来(だいにちにょらい)を本尊としています。密教は「最後まで諦めないこと」を教えにしているため、最澄が祈祷をすることで桓武天皇の病が治るのでは、と期待されたのです。

805年に帰朝してすぐに、桓武天皇の命で、高雄山寺で奈良の学僧達に日本で初めて密教の儀式のひとつ“潅頂”を授けました。

また、最新の密教を持ち帰った最澄ですが、自らが極めたいと願い学んだ天台教学の教えをも日本に広めるため、新たな宗派の設立許可を桓武天皇に願います。これまでの働きが認められ、806年1月26日、最澄の悲願であった天台宗が開宗されました。その後も最澄は、人々に天台宗の教えを説き続けました。

遺言と最期

822年5月、最澄は自らの死期を悟り、弟子に遺言を伝えています。弟子に伝えられた主な内容は、「私が死んでも喪に服す必要はない。日本を守るために、これからも毎日お経を読み続けるように」というもの。

遺言を残した翌月の6月4日、最澄は56歳で遷化(せんげ)しました。遷化とは、高僧がこの世を去ることを意味します。彼の死を惜しんだ当時の天皇、嵯峨天皇(さがてんのう)によって、「比叡山寺」は「延暦寺」という寺号を授けられました。最澄の命日には、延暦寺を始めとした全国の天台宗寺院で「山家会(さんげえ)」という法要が現在もおこなわれています。

最澄と密教について

最澄を知る上で、密教を外すことはできません。こちらでは最澄と密教の関係だけでなく、関わりの深い空海(くうかい)という人物についても簡単に解説します。

密教とは

密教は、最澄が遣唐使として渡った当時の中国で最も盛んだった仏教の流派のひとつです。教えが一般人向けに説かれていないことから「秘密教」とも呼ばれます。密教は、信者だけが集まって修行をおこなうため、神秘主義的な側面があるのが特徴です。

密教は台密と東密の2種類

日本に密教を持ち帰ったのは最澄だけではありませんでした。彼と同じ遣唐使として中国に渡った、空海も密教を日本に持ち帰り、真言宗(しんごんしゅう)として発展させたのです。

最澄が中国から持ち帰った、天台宗に伝わる密教は「台密(たいみつ)」、空海が持ち帰り京都の東寺で発展させた、真言宗に伝わる密教は「東密(とうみつ)」と呼ばれます。

密教を中国で学んだ最澄と空海

遣唐使として中国に渡る際、最澄はすでに有名なエリート僧侶でしたが、空海は才能はあるものの無名でした。もともと密教に興味を持っていた空海は、中国で密教を完全に自分のものにしたと言われています。

最澄は中国で天台教学をメインに学んでいたことや、桓武天皇に早く呼び戻されたこともあり、密教を完全に理解する前に帰国しています。帰国後、最澄は空海から密教の教えを受けていましたが、やがて2人の間に確執が生じ、絶縁したと伝えられています。

最澄と天台宗にまつわるエピソード

比叡山で長年修行をしていた最澄は、日本仏教の発展はもちろんのこと、自身の目標を達成するためにも中国に渡りました。なぜ彼は危険を冒してまで中国に渡ったのでしょうか。こちらでは、最澄が天台宗を開いた理由を始めとする2つのエピソードを紹介します。

最澄が天台宗を開いた理由

最澄が中国に渡る前の平安時代の日本は奈良仏教が主流でした。奈良仏教は自己を高める学術的要素が強く、仏教本来の人々を救ったり、手本となるような存在ではありませんでした。奈良仏教を正しい方向に修正し、規律を正すことを最澄は目標としていたのです。

比叡山で修業中、最澄は中国天台宗の開祖の教えを学んでいました。中国で天台教学を学んだ彼は、大乗菩薩戒(だいじょうぼさつかい)を授かります。

大乗菩薩戒とは、自らも悟りを開きつつ人々に教えを説く「菩薩」として、正しい心構えと、生きているすべてのものを救っていく、という誓いを推進する戒律(かいりつ)のこと。中国で大乗菩薩戒を授かったことが、最澄が開宗する天台宗のあり方を決める大きな要因となりました。

最澄がおこなった布教活動

天台宗を開宗した後、最澄は中部地方や関東地方、九州地方に出かけ、天台宗の教えを広めています。また、布教活動の傍ら無料で宿泊できる施設を旅人に提供しました。

各地で法華経(ほけきょう)を写経した最澄は、六所宝塔(ろくしょほうとう)と呼ばれる塔を建てて中に写経を納めた、と言い伝えられています。

最澄が日本に与えた影響

最澄は今から1200年以上前に生まれた人物ですが、現在の日本に数々の影響を与えています。こちらでは、最澄が日本に与えた影響を2つ紹介します。

各宗派の開祖は比叡山延暦寺で学んだ

平安時代の終わり頃から鎌倉時代の初めにかけ、比叡山延暦寺では、後に浄土宗の開祖となる法然(ほうねん)や日蓮宗の開祖となる日蓮を始めとする各宗派の開祖たちが修業を積んでいます。

修行を積んだ僧侶が数々の宗派を開いたことにより、比叡山延暦寺は「日本仏教の母山」と呼ばれるようになりました。したがって、現在の日本で行われている仏式葬儀の多くは、天台宗と比叡山延暦寺を開いた最澄の影響を大きく受けています。

お茶の歴史は最澄から始まった

最澄ら遣唐使が中国からお茶の種子を持ち帰ったことが、日本におけるお茶の歴史の始まりといわれています。持ち帰ったお茶の種子は比叡山の敷地内に植えられました。現在では日吉茶園と呼ばれ、日本茶発祥の地として残されています。最澄と空海が嵯峨天皇と交わした句の中にも、お茶のことが記されています。

最澄は日本仏教の発展に大きく貢献した人物

後に宗派の開祖となる人物たちが学ぶ比叡山延暦寺を開き、天台宗の開祖となった最澄。日本仏教の発展に大きく貢献しました。また、1200年以上も前に活躍した人ながら、現在の日本に遺したコトやモノは数多く、日常生活に浸透しているものも沢山あります。仏式葬儀に参列し、お茶を口にする度に、最澄の偉大さをしみじみと感じそうですね。