「2度目のメダル獲得と父の大きな手」元プロマラソンランナー 有森裕子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第15回~

コラム
「2度目のメダル獲得と父の大きな手」元プロマラソンランナー 有森裕子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第15回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第15回のゲストは、元プロマラソンランナーの有森裕子さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
マラソンランナーとしてオリンピックのバルセロナ大会(1992年)、アトランタ大会(1996年)で2大会連続メダルを獲得。現在は知的障害のある人たちに継続的にスポーツトレーニングをする機会をつくり、その発表の場として競技会を提供する「スペシャルオリンピックス日本」の理事長を務めるなどさまざまな分野でスポーツ振興に貢献されている有森さん。前編では、オリンピックを通じて親交を深めた方々や、お父様との最後の別れについてうかがいました。

恩師・小出義雄監督からの最後の電話

ーー有森さんの指導者として、バルセロナ、アトランタの両大会でともに戦われた小出義雄監督が2019年4月に他界されました。有森さんは直前にお会いできたそうですね。

有森さん:小出監督は2015年に心疾患で倒れて緊急手術を受けて以来、何度か入退院を繰り返し、体調が思わしくないとは伝え聞いていました。でも、たまにお会いした時は元気なんですよ。周りに心配をかけないように気を遣われていたのだと思いますが、とにかくしゃべる、しゃべる(笑)。

亡くなる1か月半ほど前、解説者として参加した名古屋ウィメンズマラソンで思いがけずお会いできた時もそうでした。私と高橋尚子さん(シドニーオリンピック女子マラソン金メダリスト)がインタビュールームで話していたら、突然小出監督が入ってきたんです。「監督、いらっしゃったんですね」と驚いて、「元気じゃないですか」などと30分ほど雑談をして別れましたが、翌朝、ホテル内で小出監督にばったり。偶然にも高橋さん、鈴木博美さん(世界陸上アテネ大会女子マラソン金メダリスト)をはじめホテルに滞在していた教え子全員がその場に居合わせて、記念写真を撮ったりしました。

それから3週間ほど経ったころ、携帯電話に小出監督からの着信がありました。珍しいな、と思いながら電話をかけると、「俺、もう逝くからよ」と突然言ったんです。驚いて、仲間に連絡すると、どうやらみんなに電話をしていたようで、「とりあえず、会いに行こう」ということになりました。翌日、高橋さんや鈴木さんらと連れ立って病院にうかがうと、心配したほど重篤な様子はなく、少しほっとしたのですが、お会いするのはそれが最後になってしまいました。

小出監督は私にとって、適度に距離のある存在でした。監督は私を勝たせたいと思ってプロとして指導し、私は勝ちたいと思って監督から指示されたメニューをこなす。しょっちゅう衝突をしながらも、オリンピックという同じ目標に向けて一緒に歩み、結果を出せたのは、パートナーのような対等な関係性があったからかもしれません。

小出監督にはたくさんの教え子がいて、監督との関係性はそれぞれの選手の性格や、時代背景によって違うと思います。ただ、共通しているのは、監督が常に選手のことを考え、一人ひとりに向き合ってくださったこと。最後にお会いした時も、私の記憶にはない大会でのちょっとしたできごとについてお話しされて、「そんなことまで覚えているとは」と驚きました。

小出監督のほか、アトランタ大会のマラソン実況中継を担当されたことをきっかけに一緒にスポーツマネジメント会社を立ち上げたフリーアナウンサーの深山計さん(みやまはかる、2018年他界)、アトランタでともに戦ったマラソンランナー・真木和さん(まきいずみ、2018年同)と、ここ数年、オリンピックが縁で親交を深めた方々の訃報が続きました。

3人とも亡くなった直後はまだどこかで生きていらっしゃるような気がしていましたが、時を経るにつれ不在を実感し、ふと思い出してはさみしく感じています。2008年に他界した父のこともそうですね。

「メダリスト」の孤独と、踵の手術。父の言葉が支えに

ーーお父様は、有森さんにとってどのような存在でしたか?

有森さん:とにかく大きな存在でした。私の幼少のころは県立高校夜間部の教師をしていて、家に生徒さんを連れて来ては、楽しそうに話をしていました。その後も、父の教師としての姿は私の「教師になりたい」という思いを強くさせ、日本体育大学に進学しました。

父を想う時、真っ先に思い出すのは、アトランタオリンピックです。バルセロナで銀メダルを取った後、アトランタまでの4年間は精神的にも肉体的にも苦しい日々でした。私にはオリンピックのメダルを「ゴール」ではなく、次なる人生を生きるための「ステップ」にするんだ、という思いがあり、ランナーを引退するつもりはありませんでした。それどころか、バルセロナで優勝したロシアのエゴロア選手の安定した走りに刺激を受け、自分もさらなる高みを目指したいと意欲を燃やしていました。

ところが、喜んで手にしたはずの「メダリスト」の肩書きが障壁となり、周囲との軋轢が生まれて、孤独を感じるようになりました。心身のもがきから、足底筋膜炎で踵(かかと)に痛みが出て、バルセロナオリンピックの翌年、1993年夏ごろから悪化。悩んだ末に、1994年11月に踵の手術を受けました。両足を切開する大きな手術で、選手生命を賭ける覚悟でした。

幸い手術は成功しましたが、しばらくは車椅子に乗る生活。リハビリに専念しながらも、本当にまた走れるのだろうか、不安がよぎりました。そんな時に、父からの手紙に書かれていた言葉が心を支えてくれました。

「とにかく焦るな。裕子が思っているより、周りはそんなに進んでいないから、安心して専念しなさい」

3カ月後に退院。3年半ぶりのフルマラソン復帰となった北海道マラソン(1995年8月)で優勝し、アトランタオリンピックのスタートラインに立つことができました。3着でゴールにたどり着き、両親を見つけて駆け寄った時、父が私の肩を叩いてくれた感触が忘れられません。

優しい叩き方じゃないんですよ。大きな手でバン、バン、バンって、父の思いが体中に伝わってくるような叩き方でした。25年経った今も、あの感触がずっと私に残っています。

仲良し両親の別れ。母は立ち直りに3年を要した

ーーお父様の温かいお人柄を感じます。

有森さん:父には「好きだな」と思うところも、反発を感じるところもありましたが、私はやっぱり「お父さん子」。父の大きな愛情に甘えていたところがありました。ですから、父を亡くしたことは、とてもショックでした。ただ、父が亡くなった当時は、別れを悲しむ時間があまりなかったように思います。母の悲しみがあまりに深く、とにかく母のことが心配だったからです。

父と母はとても仲の良い夫婦でしたから、父を亡くした母のさみしさ、つらさは耐えがたいものだったはずです。岡山でこれからひとり頑張っていく母を思うと、心が痛みました。私や兄に迷惑をかけまいと、母は電話もほとんどかけてこないから、余計に心配なんですよ。気丈に振舞っていましたが、父のことを思い返しては泣いていたと思います。

母が立ち直るまでに3年はかかりました。母が泣かずに父のことを話せるようになって、ようやく私も父の死に向き合えたのかもしれません。そのころから父を思い出すことが増えました。そして、年月を経るごとに、父と話したいという思いが募っています。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
ギリシャ・サントリーニ島の街「イア」で、夕焼けを見たいです。海に突き出た崖の上に古城があり、夕暮れ時になるとたくさんの人たちが集まってくるんです。数年前に訪れたのですが、エーゲ海に沈む太陽に空と白い街並みが照らされて、忘れられない光景です。

夕暮れ時って、好きですね。夕焼けが綺麗だと、夕日が限りなく近く見える場所に向けてあてもなく走ったり、「どこが一番綺麗に見えるんだろう」と夢中になって探したり……。そんなことをよくやっています。

イアの古城から見た夕焼け

サントリーニ島はギリシャの首都アテネから南東約230キロメートル、空路で約40分の場所にある。イアは島の北西端に位置する小さな街。夕日の美しい場所として有名で、一番人気は古城「アギオス・ニコラオス要塞」。断崖に立ち並ぶ白い壁の家々やエーゲ海が一望できる。
※写真はイメージです。

プロフィール

元プロマラソンランナー/有森裕子さん

【誕生日】1966年12月17日
【経歴】岡山県岡山市生まれ。オリンピックのバルセロナ(1992年)、アトランタ(1996年)両大会で銀メダル、銅メダルを獲得。2007年「東京マラソン2007」でプロマラソンランナーを引退。1998年NPO法人「ハート・オブ・ゴールド」設立、代表理事就任。2002年4月アスリートのマネジメントを行う株式会社RIGHTS.設立(現在は株式会社アニモ所属)。スペシャルオリンピックス日本理事長、日本陸上競技連盟理事副会長など数多くの要職を務める。
【そのほか】2010年6月、国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)