「父は人とともに生きた“昭和の男”」タレント 山田邦子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第30回~

コラム
「父は人とともに生きた“昭和の男”」タレント 山田邦子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第30回~
短大卒業と同時に芸能界に「就職」し、80年代の伝説的バラエティ番組『オレたちひょうきん族』でお茶の間の人気者に。『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』など多くのレギュラー番組を持ち、女性の「ピン芸人」として他の追随を許さない実績を持つ山田邦子さん。前編では家族を愛し、山田さんを大切にし続けたお父様との思い出と別れについてお話しいただきました。
「人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

親のためにミイラになる道を探った

−−−山田さんは東京の下町で育ち、ご両親と2歳上のお兄様、8歳下の弟さんの5人家族だそうですね。

山田さん: 小学校5年生までは母方の祖父母や親戚も隣に住んでいて、にぎやかな環境でした。兄と弟が病弱だったので、私は親にあまり構ってもらえず、複雑な思いを抱えていた時期もありましたが、祖父母など誰かしらがフォローしてくれました。とても可愛がられて育ったと思います。

父は建設会社で営業の仕事をしていて、母とは社内結婚です。家族をすごく大切にする人でした。早くに両親を亡くしたことも影響していたのかもしれません。学生時代は立教大学の水泳部で活躍し、アルバムに「山田芳美」とサインが入った父の写真がたくさん残っています。キャーキャー言われて、いい気になっていたんじゃないでしょうか。

地方の支店に出張する時に私を連れて行くこともありました。理由はいまだにわかりませんが、何か都合のいいことがあったのでしょう。幼いころから麻雀大会やゴルフ大会など大人ばかりの場所によく連れて行かれました。父と過ごすのは楽しくて、大好きでした。

一方で、私が父のいないところで外泊するのは絶対に禁止。学生時代はずっとそうで、学校の宿泊行事にも行かせてもらえませんでした。高校の修学旅行だけはどうしても行きたくて何度もお願いし、何とか許してもらえたのですが、なんと父はこっそり旅行についてきました。
父のことは好きでしたが、窮屈でしたね。親が私のことをあまりに心配するので、「このままではお父さんは私を残して死ぬことすらできない」と考え、親のために「19歳で死のう」と思っていました。私が先に逝けば、親も心置きなく死ねる。一時はつらいかもしれないけれど、その方が親のためなんじゃないかと考えたんです。

「死とはどういうものなんだろう」と関心を持って、ミイラになる道を探ったこともあります。日本でもミイラは発見されていて、修行僧が穀物を絶つ厳しい修行の末に土の穴に入ってミイラになる即身仏というパターンもあるそうですね。私にはとてもできないと思いました。こんなことを本気で考えていたのですから、頭のネジが外れていたのかもしれません。親が親なら、子も子です。

だけど、19歳になったら、死ぬどころではなくなってしまいました。趣味でやっていたお笑いの活動で「バスガイド」のネタができてテレビ番組に出るようになり、毎日が楽しくてたまらなかったからです。そのうちにドラマ『野々村病院物語』への出演が決まり、短大卒業と同時に20歳で芸能界デビューしました。

父が私に隠れて「大御所芸能人」に直電!

−−お父様は芸能界デビューに猛反対されたとか。

山田さん:私は父の意向で東京・目白にある「川村学園」というお嬢さん学校で中学から短大までを過ごし、就職も父のツテで大手建設会社の内定をいただいていました。ところが、卒業までの間にドラマ出演が決まり、「端役だから、会社勤めをしながらできるだろう」と甘く考えたんです。父に話したら、「何を言っているんだ」と激怒されました。当たり前です。

一時は口も聞いてくれず、テレビ局からかかってきた電話も父に切られてしまい、途方に暮れました。この時に助けてくれたのが、『野々村病院物語』に内科医役で出演していた関口宏さんです。

関口宏さんのお父様の俳優・佐野周二さんは父の大学の大先輩で、運動部で活躍している学生を応援していました。水泳部の選手だった父も佐野さんのご自宅に呼ばれ、幼いころの関口さんと遊んだことがあると父に聞いていました。私も中学生のころに一度、関口さんのご実家にお邪魔したことがあります。

私自身が関口さんにお会いしたことはありませんでしたが、『野々村病院物語』の台本をいただいた時に関口さんのお名前を発見。リハーサルの初日に楽屋にごあいさつにうかがって自己紹介し、「父が芸能界に入ることを反対しているので、関口さんから何か言っていただけないでしょうか」とお願いしました。図々しいにも程がありますよね。

断って当然の話なのに、なんと関口さんは「いいよ。会いたかったんだよ」と言ってくれました。おまけに、しゃぶしゃぶの高級店に父と私を招待してくださり、「今の芸能界はスタッフもみんなしっかりしているから、お嬢さんも大丈夫」と父に話してくれたんです。父は大喜び。「宏がそこまで言うなら、しょうがないな」と芸能界に入ることを認めてくれました。
父が亡くなって20年以上経ちますが、数年前に関口さんにお会いした時のこと。「スマホのアドレス帳にお父さんの名前が入っているんだよね。もう消していいかな」と聞かれました。「なかなか消せないよな、こういうのな」って。

ありがたいなと思いましたね。もうかかってくることもない電話なのに……。あの父のことですから、娘のことが心配で、私に隠れてちょこちょこと関口さんに電話をしていたはずです。

壮観! 現役の大学水泳部員が並んだ父の葬儀

−−お父様が亡くなったのは、1998年でしたね。

山田さん: 65歳で会社を退いて2年後、朝、自宅で心臓発作を起こし、ぽっくり逝ってしまいました。父の背広の胸ポケットには、その日の新幹線の切符が入っていました。父はお伊勢さんが好きで、毎年お札を取り替えに行っていたんです。私も10回ほど一緒に行ったでしょうか。

実は、亡くなる10日ほど前、父とちょっとした言葉のすれ違いがありました。朝の生放送の番組で「親不孝」をテーマにしゃべることになり、収録に向かう車から父に電話をして「私、親不孝かな?」と聞いたんです。すると、父が「ま、親不孝だね」と言ったんですよね。

きつい調子ではなかったけれど、当時私は30代後半で、結婚する前でした。周りから「なんで結婚しないの?」とよく聞かれ、「個人の自由だから、いいじゃない」と思いつつも、両親に対しては何となく申し訳なさを感じていました。だから、ちょっとグッと来て「わかりました。じゃあね」と言葉少なに電話を切ったんです。

親子のことですから、私としては深刻に受け止めていなかったのですが、横で聞いていたらしい母から「違うからね。親孝行だからね」とすぐに電話がありました。父も気にしたんでしょうね。「邦子に余計なことを言った」とたいそう落ち込んでいた、と葬儀の日に父の友人たちから聞きました。
−−それほどまでに山田さんのことを思われていたんですね。

山田さん:​日々の忙しさにかまけ、父の晩年はゆっくりと一緒に過ごすことが減っていました。もっと話を聞いてあげればよかった、かわいそうなことしてしまったと思いました。まあ、父はちやほやされたいタイプでしたから、友だちに「かわいそう」と同情されたかっただけなのかもしれません(笑)。

葬儀にはたくさんの方々が参列してくださったんですよ。私が芸能人だからではありません。大半が父の会社や取引先の方々、友人・知人、地域で仲良くしていただいていた方々など直接おつき合いのあった人たちでした。父は立教大学水泳部の監督も務めたので、受付にはお手伝いに来てくださった現役の大学生の方たちがずらりと並びました。あの光景には驚きましたね。

父は先輩に可愛がられ、後輩の面倒を見て、人とのつながりをとても大切にした人でした。うちは裕福という訳ではなかったと思います。それでも父はよく実家に人を招いてもてなしていましたし、困っている人にはお金を貸すこともあったようです。
かたや私は「ピン芸人」なので、かつては水くさいところがありました。みんなで仕事をしていても、「ひとりで頑張らなければ」とどこか肩に力が入っていたんです。でも、2007年に乳がんになった時にたくさんの人に支えてもらい、「あ、私、間違っていたんだな」と気づかされました。今はチームのありがたさを痛いほど感じています。

だから、父の姿を思い返すと、身内ながら「すごいな」と思いますね。『ひょうきん族』の撮影現場の見学に来て、たまたますれ違ったさんまさんに「おい、さんま! 無人島でふたりきりになっても邦ちゃんだけには手を出さないって言っただろう? どういうことだ」と詰め寄るような破天荒なところもありました。でも、真面目で一生懸命。人とともに生き、人とともに仕事をする。父はそんな「昭和の男」でした。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
スイカにしようかな。大好きなんですよ。コロナ禍前には新潟に畑を借り、毎年500玉くらい作っていました。JAさんに許可をいただいて「クニコ」と名づけ、チャリティー活動の一環として販売もしたんですけど、品種名は「祭ばやし777(スリーセブン)」。すごく大きくて甘いんです。新潟で生まれた品種だと思い込んでいたのですが、つい最近、奈良県の萩原農場で開発されたと判明。「すいかの日(7月27日)に謝りに行ってきました(笑)。

祭ばやし777

「祭ばやし777」は大きくて7〜8キログラム、小さくても6〜7キログラムに育つ大玉品種。コクと風味が大きな特徴で、シャリっとしたスイカ本来の食感を持ち、全国で栽培されている。
萩原農場の祭ばやし777

プロフィール

タレント/山田邦子さん

【誕生日】1960年6月13日
【経歴】東京都出身。1980年に芸能活動開始。『オレたちひょうきん族』『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』などで人気に。近年は舞台で活躍するほか、2020年にYouTube「山田邦子 クニチャンネル」を開設。若手芸人とのコラボや最新の芸能ニュースへのコメントが注目されている。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)