「父の最後に捧げた“演技”」俳優 佐野史郎さん【インタビュー前編】~日々摘花 第35回~

コラム
「父の最後に捧げた“演技”」俳優 佐野史郎さん【インタビュー前編】~日々摘花 第35回~
存在感のある演技で俳優として活躍し続ける佐野史郎さん。ご実家は島根県松江市で江戸時代末期から続く開業医。長男の佐野さんは家業を継ぐよう言い聞かされて育ったそうです。前編では親子の葛藤もありつつ、大きく影響を受けたお父様との思い出と別れについてお話をうかがいました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

実家は、松江市で江戸末期から続く開業医

−−佐野さんは俳優として活躍される一方で、音楽、執筆、写真などさまざまな分野で才能を発揮されています。写真は医師だったお父様も好きだったとか。

佐野さん:父は同郷(島根県)の母と結婚したと同時に山梨市の病院に勤務し、その時期に「結婚祝い」と称して二眼レフのカメラと現像、引き伸ばしの機材一式を揃えたようです。昭和30年、僕が生まれて間もなく東京へ引っ越しましたが、山梨での写真はたくさん残っています。新婚だから愛に溢れていて、アラーキー(写真家・荒木経惟さん)ばりの写真もあったりして。ちょっと発表はできないですけれどね。

東京では弟も生まれ、僕が6歳まで練馬区桜台の借家で暮らしました。東京オリンピック(1964年)前ですから、都内の街並みも今とは違いましたよ。路面電車が走り、新宿駅の階段が木製だったのをよく覚えています。当時の東京が僕の原風景です。

練馬のあたりは武蔵野ののどかな光景が広がっていて、東京での生活は穏やかでした。父も仕事は忙しかったと思いますが、心にゆとりがあったんでしょうね。写真を撮っては押し入れで現像したりもしていましたし、ヴァイオリンを弾いたり、クラシックを聴いたり。機械いじりも趣味で、秋葉原で部品を買い集めて自分でラジオやオーディオ機器を作っていました。

鉄道模型も好きでしたし、もうやりたい放題ですよね(笑)。まさに、趣味人でした。父のそういうところは僕も受け継いだのかな、と思います。
−−その後、一家は島根県松江市へ。以後、佐野さんは高校卒業までを松江で過ごします。

佐野さん:父の実家は松江市で元治元年(1864年)から続く開業医で、父が4代目。家業を継ぐために実家に戻ったんです。現在も残る木造家屋は明治11年に建てられたと記録にありますが、祖父母や伯母と同居し、住み込みの看護師さんたちもいる暮らしが始まり、家族の生活は一変しました。母は幼い僕たちを育てつつ、大所帯の食事づくりに追われ、休む暇もありませんでした。

父は松江で暮らしはじめて3年目(昭和39年)に鉄筋の新しい医院を増築しました。祖父が産婦人科、父が内科・循環器科を担当し、患者さんがたくさんいて、とにかく忙しそうでしたね。東京時代とは違って大家族でしたし何かと慌ただしく、父と母の関係もぎくしゃくしていました。

大人たちのそんな姿を見て、正直なところ、良くは思っていませんでしたね。父は僕に「家を継げ」と散々言っていましたが、医家に縛られて辛そうな父を見ていると「医者は、嫌だな」と思っていました。父もまたそのように言われて育ったようなのでなおさらでした。

代々刷り込まれ、父に根づいていた家督相続意識

−−地元で代々続く医院の長男として、「将来は医者に」と期待されるプレッシャーは相当なものだったのではないでしょうか。

佐野さん:やはり重荷でしたね。誰もが僕が家業を継ぐのが当然、と思っていましたから。ただ、今思えば、僕以上に重圧を感じていたのは父だったかもしれません。父は2代目が亡くなる時に枕元に呼ばれ、ちゃんと家を継ぐようにと言われたそうです。長男は家業を継ぐもの、という刷り込みは父の中に強く根づいていて、息子に医院を継がせなければ、という思いは切実だったはずです。

僕にも、期待に応えたいという気持ちがないわけではなかったんですよ。でも、いかんせん適性がありませんでした。中学3年でギターを始めて高校ではロックバンドを組み、文学や映画演劇、美術にも興味があって、好きなものにはとことんのめり込み、お調子者というか、社交的で気の合う友人も常にいましたが、「勉強」と名のつくものに興味が持てませんでした。

松江は古い神話の国で、幻想的な風土が好きでしたし、両親も祖先もみんな出雲の人間で、僕の中には出雲という土地への帰属意識が自然と存在していましたけれど、よく「東京に帰りたい」と言って親を困らせていたようです。家業への抵抗はそれも影響していたかもしれないですね。6歳までを過ごしたオリンピック前の東京の風景がやっぱり好きで、もうその光景は存在しないとわかってはいましたが、帰巣本能のようなものが働いていたのかなと思います。

最終的には、高校2年生のクラス分けで文系クラスに入り、医者にはなれないことが確定しました。僕は理系科目が苦手で、能力別編成でのクラス分けでしたし。親族会議が開かれましたが、こればかりはどうしようもないですよね。「本人に意欲もないし、さすがにもう無理だから、成績優秀な弟の方が適任だろう」という話になりました。

父の葬儀後に秋葉原から届いた荷物

−−その後、佐野さんは1973年に東京の美術学校に進学し、19歳で劇団「シェイクスピアシアター」の旗揚げに参加。俳優の道を歩みはじめます。佐野さんの進路について、お父様は何かおっしゃっていましたか。

佐野さん
:僕が医者にならないとわかってからは、何も言われませんでした。長男として医者にならなければ例え一流企業に就職しても喜んでもらえないような環境でしたし。父自身の本来の気質は趣味人ですし、僕のことをどこか「あいつはしょうがないな」と許容するところがあったのかもしれません。ドラマ『ずっとあなたが好きだった』で冬彦役をやった時も、「どんな世界であれ、極めるのは大切なことだ」と喜んでいました。
−−お父様は2000年11月に他界されました。

佐野さん:亡くなる直前、多分、これが最後の別れになるだろうという時に、「家のことは大丈夫だから。俺に任せて」と病床の父に話しかけました。

「家のことは大丈夫だから」という僕の言葉に根拠などあるはずがないんですよ。でも、父はうなずいてくれました。僕はただ目の前の人を安心させるために「長男が家を継ぐ」という佐野家の物語を演じ、父はその物語を信じようとした。台本通り。そこに嘘はありませんでした。

ただ、父も本当のところは佐野家の物語なんてどうでもよかったんじゃないかな、と思います。だって、父の葬儀からしばらくして、父が久しぶりに自分で設計したアンプが秋葉原の電子機器会社から届いたんですよ。死期を悟っていたはずなのに、マニアにも程がある(笑)。

最後の最後も、自作のオーディオでクラシックを爆音で聴いていたそうです。すでに目も見えず、意識もあるかないかわからない状態でした。

人間には「食べたい」、「触れたい」といったいろいろな欲があるけれど、身体の機能が失われていって、何も動かなくなった時、父は音の振動を欲した。振動から、自分が生きていることを感じ、最後まで生き延びようとして亡くなっていったんじゃないかと思います。そこには家の物語も何も関係ないですよね。一個人として父が生きたいと思っただけの話で。

最後は趣味に徹したんじゃないですか。僕は好きですよ、そんな父が。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
昭和45年(1970年)に閉店した島根県松江市「天要」の天丼です。8歳くらいの時だったかな。母の実家に遊びに行く予定だったのに両親が夫婦喧嘩をして、僕だけが父に連れ出された日があったんですね。ふたりで街を歩き、江戸川乱歩の『電人M』を買ってもらったりして、「天丼を食べよう」と言われて入ったのが「天要」でした。

看板のない店で、白魚のかき揚げが有名だったらしいんですけど、もう切れていて。モロゲエビ(手長海老)しかなくて、その天丼を父が注文して待っていたら、お店の人が後から来た常連客らしきお偉いさん風の4人組に先に天丼を出したんですよ。「おかしい」と思って父に言ったけれど、ニヤニヤするだけでね。父への不信感が芽生えた瞬間でした。

ただ、出てきた天丼はものすごく美味しくて。両親が喧嘩をしたり、理不尽なことがあってもヘラヘラしている父の姿を見たり、イヤな気持ちでいっぱいなのに、天丼は美味しくて幸せで。相反する思いが身体に同居する感覚をどうすればいいのかわからなくて、ひたすら天丼をかきこんだのを覚えています。

神田 天麩羅 はちまき

天丼をこよなく愛する佐野さん。お父様との思い出の天丼屋「天要」(島根県松江市)はすでに閉店していますが、東京にもいくつかお気に入りの天丼屋さんがあり、そのひとつが神田神保町の「はちまき」。昭和6年(1931年)創業、江戸川乱歩も通った天ぷらの老舗です。

プロフィール

俳優/佐野史郎さん

【誕生日】1955年3月4日
【経歴】島根県松江市出身。1975年、劇団「シェイクスピアシアター」の旗揚げに参加。退団後、唐十郎が主宰する「状況劇場」を経て、1986年「夢みるように眠りたい」(林海象監督)で映画デビュー。以降、数多くの映画・TV・舞台に出演するほか、写真、執筆、音楽、など多方面で活躍中。
(取材・文/泉 彩子  写真/刑部 友康)