「“おやすみ”は必ず笑顔で」タレント・麻木久仁子さんインタビュー前編】~日々摘花 第39回~

コラム
「“おやすみ”は必ず笑顔で」タレント・麻木久仁子さんインタビュー前編】~日々摘花 第39回~
東京ディズニーランド®️開園のテレビCMでデビューし、2023年で芸能活動40周年を迎えた麻木久仁子さん。クイズ番組での活躍、卓越した筆致のエッセイなど知性にあふれ、明るい笑顔が印象的です。前編では、7歳で経験した弟さんとの別れについてお話しいただきました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

人生で一番涙を流した、7歳のあの日

−−これまで経験された「永遠の別れ」の中で、とりわけ心に残っているのは、どなたとのお別れでしょうか。

麻木さん:昭和45年5月に5歳で亡くなった、弟との別れです。交通事故でした。令和4年の交通事故死者数は2,610人ですが、この年に交通事故で亡くなった人は日本史上最悪の1万6,765人。自動車交通の急成長に法整備や道路事情が追いつかず、年間交通事故死者数が日清戦争2年間の戦死者を上回る勢いで増えていたことから、「交通戦争」と呼ばれた時代でした。

弟は母と一緒に買い物に行き、母がお金を払っている数十秒の間にトラックに跳ねられて亡くなりました。当時は一升瓶の蓋をおはじきにして遊ぶのが流行っていて、弟は手から転がり落ちた酒蓋おはじきを拾おうとして道路に飛び出たらしいんです。ほぼ即死でした。

当時、私は7歳。たまたまこの日の朝、弟とケンカをしたんです。そのころ私はお気に入りの折り紙を何枚も集めてクッキー缶に入れていたのですが、ふと見ると、弟が勝手にその缶を開け、私の折り紙で何かを折っていたんですね。怒って折り紙を取り上げると弟が泣きましたが、私はそのまま学校へ。放課後に帰宅すると家に近所の方がいて「お母さんね、ちょっと病院に行っているから」と言いました。

冷たくなった弟が家に戻ってきた時、涙が滝のようにあふれました。人生であんなに涙を流したことはありません。体のどこにこんなに水分があるんだろう、と思うくらい涙が出て身動きもできませんでした。

少なくとも家族とだけは、ケンカをしたまま別れたくない

−−7歳でそのようなご経験をされたとは……。

麻木さん:当時のことはもうほとんど記憶にないのですが、弟が亡くなった日のことだけはよく覚えています。父が弟の亡きがらにすがって大声で名前を呼んで号泣していた姿や、まだ死を知らない3歳の妹が「わたしのおやつのプリンはどこ」と言ったことなど、あの日の光景は、ついさっきまで温かかった弟の身体の冷たい感触とともに心に焼きつきました。

弟が亡くなったのは、父が念願のマイホームを建て、千葉の公団住宅から東京・町田市に引っ越す直前でした。引っ越し後、弟が亡くなった翌年に男の子が生まれ、私は4歳下の妹、8歳下の弟と3人きょうだいで育ちました。私が高校生の時に両親が離婚したりして我が家にはいろいろあったし、時間が経つにつれ亡くなった弟の記憶も薄らいで、交わした会話をそんなに覚えているわけではないんです。

でも、弟が亡くなった日のことは、いつまでも記憶の片隅に残っています。結局、私にとって弟との最後の思い出は、ケンカなんですよね。「怒ったりなんかしなきゃよかった。折り紙の2枚や3枚、あげればよかった」と何度も思ったけれど、どうにもならない。

きょうだいゲンカはどの家庭でも日常的にあることですし、罪悪感というほどのものを背負っているわけではありません。ただ、寝覚めが悪いと言うのでしょうか。30代半ばくらいまでは、夜中に自分の泣き声で目覚めるようなことが時々ありました。そのことをこうやって人に話せるようになったのはつい最近です。

人の死というものがいかにあっけないものか。そして、大切な人の死がどれだけ忘れられないものであり、良い別れをしなかった後悔がどれほどのものなのかを、私は幼くして知りました。だから、翌日にけんかを持ち越すのは苦手です。「少なくとも家族とだけは、ケンカしたまま別れたくない」という思いがずっとあって、娘が幼いころに何かで叱っても、寝る時には必ず笑顔で「おやすみ」を言っていました。

今は84歳の母とふたりで暮らしていて、私に心の余裕がないと、母にきつめに当たってしまう日もあります。でも、寝る前にはトントンと母の部屋の扉を叩き、「これでも食べる?」とお饅頭をそろりと差し出したりして(笑)。そうしないと、気が済まないんですよね。

「あの子がいたら」。亡き弟を思う、母のつぶやき

−−弟さんは幼くして亡くなりましたが、その存在は大きなものでしたね。

麻木さん:7歳だった私がこれだけ弟のことを忘れられないのだから、母はなおさらだと思います。弟への思いを母に聞いたことはありませんが、母はつらいことや心細いことがあると、「あの子がいたら」というようなことをポロッと言うことがありました。

私が母の気持ちを少しなりともわかるようになったのは、32歳で娘を産んでからです。若いころの私と母は顔を見合わせればケンカをしていました。父と別れた後、母は子ども3人を育てるために昼夜なく働いて大変でしたし、家事や妹、弟の面倒を見るのは私の役目。今思えば、お互い心の余裕がなかったのだと思います。ケンカを避けるには距離を置くしかないと考えて、20歳の時に家を出ました。

でも母は、大学を中退して芸能界に入り鳴かず飛ばずだった私を見守ってくれましたし、娘が生まれてからは育児を手伝ってくれて、娘はおばあちゃん子に育ちました。一方、私自身もシングルマザーとして娘を育てて、かつての母の大変さがわかるようになり、母は母なりに精一杯子どもたちを大事にしてくれていたんだなと感じた時、幼い息子を亡くした悲しみの深さに初めて触れた気がしました。

弟のことを思い、母が私たちの知らないところでどれだけ涙を流したかわかりません。そのことを母が話すことはなかったし、これからも多分、話さないでしょう。

大切な人とのつらい別れを経験しても、みんな、日常生活の中でそれを他人に語ったりはしません。だけど、世の中の人たちには、それぞれが抱えている亡き人への思いがある。幼い弟との突然の別れから50年以上経った今、そんなことを考えたりもします。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
家事を担当していた学生時代によく作った、卵と長ネギだけの炒飯です。今も時々食べたくなって、ひとりの時に作ることがありますが、炒飯って奥深いですよね。温かいごはんを使うようにしたり、軽くて振りやすいフラインパンを使ったりと工夫を重ねてきましたが、理想通りのパラパラ加減にはなりません。最後の最後まで台所に立ち、100点満点のパラパラ炒飯を仕上げて頬張る。それができたら、思い残すことはありません。
写真はイメージです。

深型フライパン

麻木さんが炒めもの料理に愛用しているのは、ダブルファイバー加工が施された鉄製の深型フライパン。表面に施された細かい凹凸によってフライパン全体に油がよくなじむだけでなく、食材と鍋肌がランダムな点で接するので焦つきにくい。麻木さんはひとり分の料理を作ることが多いので直径20センチと小ぶりで、重量650グラムの軽いものを選んでいる。

プロフィール

タレント/麻木久仁子さん

【誕生日】1962年11月12日
【経歴】東京都出身。タレントやコメンテーターとしてテレビ・ラジオで活躍。2010年に脳梗塞、2012年に乳がんを発症。病気の体験から食事を見直し、国際薬膳師、温活指導士などの資格を取得。「体を温め、免疫力を高める」という考えや食事などを提案している。
(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)