「誰かが覚えている限り、人は生き続ける」映画字幕翻訳者・戸田奈津子さん【インタビュー前編】~日々摘花 第69回~
コラム

映画字幕翻訳者として1500本を超える外国映画の字幕翻訳を手がけ、日本の映画文化を支え続けてきた戸田奈津子さん。幼い頃に戦争で父を亡くした戸田さんにとって、97歳で旅立ったお母さまは、最も身近な存在でした。
前編では、戸田さんを女手ひとつで育てたお母さまとの思い出やお別れを中心に、お話を伺いました。
前編では、戸田さんを女手ひとつで育てたお母さまとの思い出やお別れを中心に、お話を伺いました。
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。
愚痴ひとつこぼさず、働き続けた母
――これまで経験された“お別れ”の中で、もっとも印象深いのはどなたですか。
戸田さん:母です。2011年に97歳で亡くなりました。父は私が1歳のときに日中戦争下の上海で戦死しているので、記憶にありませんし、兄弟もおらず、いわゆる一親等は母だけ。いちばん身近にいたのが母ですから、もっとも印象深いのはやはり母ということになります。
戸田さん:母です。2011年に97歳で亡くなりました。父は私が1歳のときに日中戦争下の上海で戦死しているので、記憶にありませんし、兄弟もおらず、いわゆる一親等は母だけ。いちばん身近にいたのが母ですから、もっとも印象深いのはやはり母ということになります。
○映画字幕翻訳者/戸田奈津子さん プロフィール
1936年7月3日生まれ、東京都出身。津田塾大学英文科卒業。会社勤務などを経て、映画字幕翻訳者に。『地獄の黙示録』『E.T.』『タイタニック』『バック・トウ・ザ・フュ−チャー』『ミッション:インポッシブル』シリーズなど、1500本を超える外国映画の字幕翻訳を手がける。字幕翻訳の第一人者として活躍する一方、世界的映画人の通訳としても長年映画界を支え、日本の海外映画文化の発展に大きく貢献。1992年、第1回淀川長治賞受賞。現在も映画や文化に関わる活動を続けている。
1936年7月3日生まれ、東京都出身。津田塾大学英文科卒業。会社勤務などを経て、映画字幕翻訳者に。『地獄の黙示録』『E.T.』『タイタニック』『バック・トウ・ザ・フュ−チャー』『ミッション:インポッシブル』シリーズなど、1500本を超える外国映画の字幕翻訳を手がける。字幕翻訳の第一人者として活躍する一方、世界的映画人の通訳としても長年映画界を支え、日本の海外映画文化の発展に大きく貢献。1992年、第1回淀川長治賞受賞。現在も映画や文化に関わる活動を続けている。
――お母さまはどんな方でしたか。
戸田さん:人付き合いの上手な、誰からも好かれた人でした。結婚して3年も経たないうちに夫を戦争で亡くし、戦時中にひとりで子どもを育てたわけですから、本当は大変な人生だったと思います。
でも、愚痴の“ぐ”すら聞いたことはありませんでした。苦労したことがあっても、「え? 何もしてないわよ」っていう感じ。苦労を苦労とも思っていない。楽天的というか、とても前向きな人でしたね。
戸田さん:人付き合いの上手な、誰からも好かれた人でした。結婚して3年も経たないうちに夫を戦争で亡くし、戦時中にひとりで子どもを育てたわけですから、本当は大変な人生だったと思います。
でも、愚痴の“ぐ”すら聞いたことはありませんでした。苦労したことがあっても、「え? 何もしてないわよ」っていう感じ。苦労を苦労とも思っていない。楽天的というか、とても前向きな人でしたね。
父が他界してから、母は東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)で教員資格を取得し、しばらく高校の家政科の教師をしていました。戦時中ですから、教師といっても教壇に立って授業を行うことはほとんどなく、軍事工場のようなところで女学生の引率者として、旋盤を使って物を作ったりしていました。教師は好きな仕事ではなかったみたいで、2、3年で退職し、その後は会社勤めをして定年まで働いていました。
母は、私なんかが追いつけないぐらい、とてもよく働く人でしたね。
――1週間に1作品のペースで字幕翻訳を仕上げていた戸田さんが追いつけないほど!?
戸田さん:私は机の上で仕事しているだけですから。でも、母は違います。毎日出社して、家に帰ってきたら今度は私の面倒を見て、それから掃除、洗濯、お料理……、全部やっていました。それらを当たり前のようにこなしていて、一度も大変そうな顔を見せたことはありませんでした。
家のことはすべて母に任せきりでしたので、私は何もできないんです。何度か家事に挑戦してみたけれど、母は何でも上手にできるから、私がやったものが気に入らないわけ(笑)。
恥を忍んで言いますけど、私は90歳になるのに、洗濯機を一度も使ったことがないの。使い方もわからない。母が動けなくなってからは、お手伝いさんに来ていただいているので……一生、洗濯機を使わずに生きていくのかしら? お料理はうまくないし、自分で食べるものも作らないし、掃除もできないし、本当にダメね。
母は、私なんかが追いつけないぐらい、とてもよく働く人でしたね。
――1週間に1作品のペースで字幕翻訳を仕上げていた戸田さんが追いつけないほど!?
戸田さん:私は机の上で仕事しているだけですから。でも、母は違います。毎日出社して、家に帰ってきたら今度は私の面倒を見て、それから掃除、洗濯、お料理……、全部やっていました。それらを当たり前のようにこなしていて、一度も大変そうな顔を見せたことはありませんでした。
家のことはすべて母に任せきりでしたので、私は何もできないんです。何度か家事に挑戦してみたけれど、母は何でも上手にできるから、私がやったものが気に入らないわけ(笑)。
恥を忍んで言いますけど、私は90歳になるのに、洗濯機を一度も使ったことがないの。使い方もわからない。母が動けなくなってからは、お手伝いさんに来ていただいているので……一生、洗濯機を使わずに生きていくのかしら? お料理はうまくないし、自分で食べるものも作らないし、掃除もできないし、本当にダメね。
戸田さん:私は親不幸な娘だったと思いますよ。母には感謝していましたけど、母が家事をすべてやってくれると思っているような人間でしたから。今思うと、とんでもない娘でしたね(笑)。
――そのお母さまのおかげで、今の戸田さんがいらっしゃるのですね。
戸田さん:そうでしょうね。
当時は、夫に頼って生きる女性も多かった時代です。でも母は違いました。女ひとりでちゃんと生きていた。「こうしなさい」と教えるような人ではありませんでしたけど、毎日母の姿を見続けていたので、自然と「人に頼らず、自分の人生を生きる」ということを学んだような気がします。
女性が手に職をつけて働き続ける――私も母と同じように仕事をしてきましたから、そう考えると、母の姿から学んだことは大きかったのかもしれませんね。
――そのお母さまのおかげで、今の戸田さんがいらっしゃるのですね。
戸田さん:そうでしょうね。
当時は、夫に頼って生きる女性も多かった時代です。でも母は違いました。女ひとりでちゃんと生きていた。「こうしなさい」と教えるような人ではありませんでしたけど、毎日母の姿を見続けていたので、自然と「人に頼らず、自分の人生を生きる」ということを学んだような気がします。
女性が手に職をつけて働き続ける――私も母と同じように仕事をしてきましたから、そう考えると、母の姿から学んだことは大きかったのかもしれませんね。
母から譲り受けた強靭なDNA
――お母さまは、晩年どのように過ごされていたのでしょうか。
戸田さん:亡くなる2年ほど前から施設に入っていました。でも、意識もしっかりしていましたし、ずっと元気でしたね。
母には3歳違いの妹がいまして、あとから「私も入りたい」と言って、姉妹で同じ施設に入居していました。昔から本当に仲が良くて、しょっちゅう行き来していましたし、一緒に旅行もしていました。身近に妹がいるというのは母にとっても心強かったように思います。
叔母も夫を戦争で亡くしていましたので、あの頃ならではの強い絆で結ばれていたといいますか、本当に仲のいい姉妹でしたね。戦争っていうものがすべてを壊しましたから、今の家族関係とは少し違ったのかもしれません。
叔母は母が亡くなったあともその施設で暮らし、99歳で亡くなるまで元気に過ごしました。
戸田さん:亡くなる2年ほど前から施設に入っていました。でも、意識もしっかりしていましたし、ずっと元気でしたね。
母には3歳違いの妹がいまして、あとから「私も入りたい」と言って、姉妹で同じ施設に入居していました。昔から本当に仲が良くて、しょっちゅう行き来していましたし、一緒に旅行もしていました。身近に妹がいるというのは母にとっても心強かったように思います。
叔母も夫を戦争で亡くしていましたので、あの頃ならではの強い絆で結ばれていたといいますか、本当に仲のいい姉妹でしたね。戦争っていうものがすべてを壊しましたから、今の家族関係とは少し違ったのかもしれません。
叔母は母が亡くなったあともその施設で暮らし、99歳で亡くなるまで元気に過ごしました。
――叔母さまも99歳まで生きられたとは、ご長寿の家系なのですね。
戸田さん:ええ、母の家系は本当にみな長生きで。家族の裾が狭まっているこの時代に、うちはねずみ算式に親戚がどんどん増えていくんですよ(笑)。
母は7人兄妹の長女で、兄が2人、次女、三男、四男、三女の大家族。四男は早くに亡くなっていましたけれど、ほかの5人はみんな家庭を持ち、その子どもたち、さらに孫たちへと家族が増えていって……今やもうすごい数ですよ。声をかけるとぱっと100人ぐらい集まります。
それで素晴らしいのは、親戚には病気で亡くなった人がひとりもいないこと。もちろん寿命で旅立つ人はいますけど、みんな本当に元気なの。いまだに大病ひとつせず、こうして字幕翻訳の仕事を続けられているのも、母の家系の丈夫なDNAを受け継いだからなのかもしれませんね。
――お母さまと過ごした時間の中で、特に印象に残っている思い出はありますか。
戸田さん:一緒に何度も外国旅行をしたことです。
母は旅行が大好きで、よく海外に行っていました。ひとりはもちろん、友人や親戚と一緒に行ったり、ツアーに参加したりして楽しんでいたんですけど、80歳を過ぎた頃に、ツアーに参加しようとしたら、年齢で断られてしまったの。それがとてもショックだったみたいで、それからは私が連れて行くようにしました。
飛行機、ホテル、レンタカーなど私がすべて予約して、運転も私。母だけでなく叔母や友人を乗せて旅をしたこともありました。母は特にヨーロッパが好きだったので、行き先はフランスやイタリアが多かったかしら。 母も私も食べることが好きでしたから、美味しいものを食べて、美しい景色を見て、ゆっくり過ごす。そんな旅でしたね。
母と私は深い話をほとんどしない、非常にクールな親子関係でしたけど、母が喜んでくれていることは言葉にしなくてもよく分かりました。海外旅行が私にとって唯一の親孝行だったと思います。
戸田さん:ええ、母の家系は本当にみな長生きで。家族の裾が狭まっているこの時代に、うちはねずみ算式に親戚がどんどん増えていくんですよ(笑)。
母は7人兄妹の長女で、兄が2人、次女、三男、四男、三女の大家族。四男は早くに亡くなっていましたけれど、ほかの5人はみんな家庭を持ち、その子どもたち、さらに孫たちへと家族が増えていって……今やもうすごい数ですよ。声をかけるとぱっと100人ぐらい集まります。
それで素晴らしいのは、親戚には病気で亡くなった人がひとりもいないこと。もちろん寿命で旅立つ人はいますけど、みんな本当に元気なの。いまだに大病ひとつせず、こうして字幕翻訳の仕事を続けられているのも、母の家系の丈夫なDNAを受け継いだからなのかもしれませんね。
――お母さまと過ごした時間の中で、特に印象に残っている思い出はありますか。
戸田さん:一緒に何度も外国旅行をしたことです。
母は旅行が大好きで、よく海外に行っていました。ひとりはもちろん、友人や親戚と一緒に行ったり、ツアーに参加したりして楽しんでいたんですけど、80歳を過ぎた頃に、ツアーに参加しようとしたら、年齢で断られてしまったの。それがとてもショックだったみたいで、それからは私が連れて行くようにしました。
飛行機、ホテル、レンタカーなど私がすべて予約して、運転も私。母だけでなく叔母や友人を乗せて旅をしたこともありました。母は特にヨーロッパが好きだったので、行き先はフランスやイタリアが多かったかしら。 母も私も食べることが好きでしたから、美味しいものを食べて、美しい景色を見て、ゆっくり過ごす。そんな旅でしたね。
母と私は深い話をほとんどしない、非常にクールな親子関係でしたけど、母が喜んでくれていることは言葉にしなくてもよく分かりました。海外旅行が私にとって唯一の親孝行だったと思います。
“別れ”てもなお、母との日々は続く
――お母さまが旅立たれたとき、どのようなお気持ちでしたか。
戸田さん:残念ながら、いわゆる“死に目”には会えませんでした。毎日施設には行っていたんですけど、その日は仕事で外出していて、到着したのは息を引き取ってから数時間後でした。でも、入居していた叔母やその子どもたちがついてくれていたので、寂しくなかったのではないでしょうか。
年齢的に覚悟していたことですから、胸が張り裂けるような悲しみはありませんでした。正直、今でも母が死んだという実感がないままです。
私の夢にもしょっちゅう出てくるんですよ。会話するとか一緒に行動するとか、夢に現れるひとりとして、ただそこにいるだけなんですけどね。ストーリーに関係ないのに、いつもいる。夢って変よね、とんでもなく矛盾しているものを見るのだから(笑)。
――お母さまがそばにいらっしゃるような感覚なのですね。
戸田さん:そうですね。それに、老衰で亡くなっているので、自然の摂理だと考えれば、それほどショックではありませんでした。
これが、例えば子どもに先立たれるとか、事故的なことで肉親を亡くすとか、そういう別れ方だったら別ですよ。とはいえ、私は経験したことがありませんから、とても大変なものであることは想像できても、その悲しみや苦しみ、痛みは、経験してみないと本当のところはわからない。100%理解するのは、私には不可能です。
魂があるのかは知りませんし、そういう宗教的なことを私はあまり考えないのですが、以前どなたかが「人は、他人の記憶の中で生き続ける」と言っていらして、本当にその通りだな、と。誰かが覚えていてくれたり、ふと思い出してくれたりすれば、その人は生きていることに他ならない。だから私は、「死が終わり」だとは思いません。
しかし実際は死んだら“無”になると思っています。極楽浄土もなければ、輪廻転生もない。例えば、花で考えてみてください。花1本、枯れて死んだあと、その花が蘇るって思います?
戸田さん:残念ながら、いわゆる“死に目”には会えませんでした。毎日施設には行っていたんですけど、その日は仕事で外出していて、到着したのは息を引き取ってから数時間後でした。でも、入居していた叔母やその子どもたちがついてくれていたので、寂しくなかったのではないでしょうか。
年齢的に覚悟していたことですから、胸が張り裂けるような悲しみはありませんでした。正直、今でも母が死んだという実感がないままです。
私の夢にもしょっちゅう出てくるんですよ。会話するとか一緒に行動するとか、夢に現れるひとりとして、ただそこにいるだけなんですけどね。ストーリーに関係ないのに、いつもいる。夢って変よね、とんでもなく矛盾しているものを見るのだから(笑)。
――お母さまがそばにいらっしゃるような感覚なのですね。
戸田さん:そうですね。それに、老衰で亡くなっているので、自然の摂理だと考えれば、それほどショックではありませんでした。
これが、例えば子どもに先立たれるとか、事故的なことで肉親を亡くすとか、そういう別れ方だったら別ですよ。とはいえ、私は経験したことがありませんから、とても大変なものであることは想像できても、その悲しみや苦しみ、痛みは、経験してみないと本当のところはわからない。100%理解するのは、私には不可能です。
魂があるのかは知りませんし、そういう宗教的なことを私はあまり考えないのですが、以前どなたかが「人は、他人の記憶の中で生き続ける」と言っていらして、本当にその通りだな、と。誰かが覚えていてくれたり、ふと思い出してくれたりすれば、その人は生きていることに他ならない。だから私は、「死が終わり」だとは思いません。
しかし実際は死んだら“無”になると思っています。極楽浄土もなければ、輪廻転生もない。例えば、花で考えてみてください。花1本、枯れて死んだあと、その花が蘇るって思います?
――確かに……蘇るイメージは持てないです(苦笑)。
戸田さん:植物に限らず、虫も魚も動物もすべて再び蘇ると思っている人がいます? 人間だけが蘇るだなんて、そういうふうに考えるのは人間のおごりだと私は思います。
もちろん、そう考えるのはいいんですよ。私が言いたいのは、いわゆる「死生観」というものは、その人のプライバシーの領域だから、他人が口を出すべきではないし、押し付けてはいけないということ。再生があると考えてもいいし、輪廻があってもいいし、極楽浄土があると信じてもいいし、私みたいにすべて“無”になると考えてもいい。
どういう死生観を持つかは、その人の自由です。他人に左右されず、自分なりの死生観を大事にして、大切な人を思い続ければいい。それが、自分自身にとっても救いになると思います。
戸田さん:植物に限らず、虫も魚も動物もすべて再び蘇ると思っている人がいます? 人間だけが蘇るだなんて、そういうふうに考えるのは人間のおごりだと私は思います。
もちろん、そう考えるのはいいんですよ。私が言いたいのは、いわゆる「死生観」というものは、その人のプライバシーの領域だから、他人が口を出すべきではないし、押し付けてはいけないということ。再生があると考えてもいいし、輪廻があってもいいし、極楽浄土があると信じてもいいし、私みたいにすべて“無”になると考えてもいい。
どういう死生観を持つかは、その人の自由です。他人に左右されず、自分なりの死生観を大事にして、大切な人を思い続ければいい。それが、自分自身にとっても救いになると思います。
~EPISODE:追憶の旅路~
人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
ベニス(ベネツィア)です。これまで3回ほど訪れましたが、街が本当に美しい。地盤沈下や海面上昇によって沈んでいく運命にあることを考えると、どこかロマンチックに感じます。失われていくものには特別な美しさがありますから。
この街では『ベニスに死す』や『旅情』など多くの名作が生まれています。最近ではトム・クルーズ主演『ミッション:インポッシブル』シリーズの第7作目『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』(2023年・アメリカ)の舞台にもなっています。
この街では『ベニスに死す』や『旅情』など多くの名作が生まれています。最近ではトム・クルーズ主演『ミッション:インポッシブル』シリーズの第7作目『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』(2023年・アメリカ)の舞台にもなっています。
ベニス(ベネツィア)
イタリア北東部に位置するベネツィアは、「水の都」の愛称で親しまれる世界遺産の街。大小100以上の島々が約150の運河で結ばれ、車の乗り入れが禁止されているため、徒歩や水上バス、ゴンドラが主な移動手段。サン・マルコ広場やリアルト橋など歴史的な建造物が点在する一方、迷路のような路地を気ままに歩くだけでも、この街ならではの美しい景色に出会うことができる。地盤沈下や海面上昇の影響から「沈みゆく街」ともいわれ、そのはかなくロマンチックな風景は、世界中の人々を魅了し続けている。
(取材・文/鈴木 啓子 写真/鈴木 慶子)
インタビュー後編の公開は、8月28日(金)です。お楽しみに。




