「『氷雨』を超えて」 歌手 日野美歌さん【インタビュー後編】~日々摘花 第27回~

コラム
「『氷雨』を超えて」 歌手 日野美歌さん【インタビュー後編】~日々摘花 第27回~
「日々摘花(ひびてきか)」は、様々な分野の第一線で活躍する方々に、大切な人との別れやその後の日々について、自らの体験に基づいたヒントをいただく特別インタビュー企画です。

本編は、第27回のゲスト、日野美歌さんの後編です。
演歌歌手として「氷雨」や「男と女のラブゲーム」などのヒットを経て、近年はシンガー・ソングライターとしてポップスやジャズなどジャンルを超えた歌を世に届けている日野さん。前編では、日野さんが歌手になることを全力で応援してくれたご両親との思い出と別れについてお話しいただきました。後編では、ご自身の死生観や歌を生業とすることへの現在の思いをうかがいます。

危篤の母の手を握りながら、思わず口にした言葉

−−日野さんは「死」というものをどのように捉えていますか?

日野さん:身体は借り物であり、亡くなった人の魂は別の世界に旅立つ、という輪廻転生の考え方にずいぶん前から興味を持っています。何か特別なきっかけがあったわけではないのですが、私がもともと持っている感覚になじむのかもしれないですね。「人は生まれ変わる」という確信めいたものが私の中にあり、スピリチュアルな体験をした方の本を読んだり、お話を聞いても、「そうなんだろうな」とごく自然に感じます。

父や母が亡くなった時も、別れの痛みとともに、「魂が抜けて、楽になったかもしれないな」という思いがありました。両親ともに最後は病気で体が疲れ果て、息も絶え絶えだったからです。
とくに母はつらそうでした。晩年の母は認知症が進み、最後の1年あまりを老人ホームで過ごしたのですが、ホームに入って間もなく手遅れの膀胱がんが見つかりました。回復の手立てがなく、病状が悪化するばかりの母を見て、このままの状態を続けるのはあまりにもかわいそうだと感じました。

一方で、母は何とか頑張って生きようとしているんですよね。その姿を目の当たりにすると言葉がなく、ただ見守る日々でした。でも、最後の最後、危篤のしらせを受けて病室に入った時のこと。宙を見つめている母を前にして、私、言っちゃったんですよ。母の手を握りながら、「お母さん、もう頑張らなくていいよ。だって、すごく頑張ってきたもん」って。母が息を引き取ったのは、その1時間後でした。

いくら「来世はある」と思っていても、「死」が怖くないかと言えば、未知のものだから怖いです。「死」による別れも、やはりつらい。でも、「死んだら終わり」とは考えていません。だから、両親の旅立ちも「逝かないで」と引き止めるよりは、「ちゃんと天国に上がっていければいいな」と祈るような気持ちでした。
在りし日の日野さんのご両親

かつては自信がなかった「作詞」を始めた理由

−−「死は終わりではない」という感覚は、ご自身の日々のあり方にどのような影響を与えていますか?

日野さん:​終わりがないからこそ今を大事にしたい、という気持ちが強いです。この世でちゃんとしていないと、来世で苦労するかもしれませんから、悪いことをせず、人に優しく、憎まれるようなことはなるべくしないように、って。でも、煩悩のかたまりですから、なかなか難しいですね(笑)。聖人君子にはなれませんが、できる限りいいことをして、「ありがとう」と言い合える人たちと出会えたらいいなと思っています。

歌作りにも、私自身の死生観が色濃く反映されているかもしれませんね。私は桜が大好きで、作る歌にも桜をモチーフにしたものが多いのですが、桜に惹かれる理由は、春には必ず咲き、一瞬で散る桜の姿が、今を生きることの大切さを強く心に刻んでくれるから。東日本大震災の直後も、桜の姿に力づけられました。
日野さん:当時は「被災地の方々がこんなに苦しんでいる時に、歌を歌うことに、どんな意味があるのか」とずいぶん落ち込みましたが、幹が折れても咲く被災地の桜の映像を見て、桜が「人間よ、生きろ」と言ってくれているような気がしたんです。この時の想いを歌にしたのが、震災の翌年に発表した「桜空」です。

−−日野さんは20年ほど前から作曲・作詞もご自身で手がけていらっしゃいますね。何かきっかけがあったのでしょうか。

日野さん:40歳を迎えたころ、作曲家の馬飼野康二さんから「作詞をしてみたら?」と勧めていただいたのが始まりでした。私はオフコースやユーミンを聞いて青春時代を過ごした世代。シンガーソングライターへの憧れはずっと持っていて、作曲は昔からしていたのですが、作詞には自信がありませんでした。

ところが、馬飼野さんは公式サイトの日記帳のようなコーナーに私が書いた文章を見て「書ける」と判断し、背中を押してくださったんです。不安ながらも「頑張ります」とお答えし、馬飼野さんが作ってくださったメロディーを受け取って詞をつけてみたところ、言葉が降りてくるような不思議な感覚を味わいました。

この時にできたのが、「桜が咲いた」という歌。その後に馬飼野さんと作った「かけがえのないもの」がテレビドラマのエンディングテーマになりました。当時は「氷雨」のヒットから20年ほど経ったころ。新しいことに挑戦したくても、「氷雨」のイメージが強くて踏み出せず、悶々とする日々が長く続いていたので、これは私にとって大きな転機でしたね。自分自身が伝えたいメッセージを歌にし、皆さんに聴いていただくことが、これほど満ち足りたものなのかと思いました。

40年間歌い続けてきた今感じる、自分が歌を歌うことの意味

−−今後の人生についてイメージがあれば、お聞かせください。

日野さん: 歌を生業にさせていただいて40年になり、歌があってよかったと心から感じています。だから、この先もずっと歌い続けたい。それだけです。ただ、私も還暦を迎え、「あと何年声が出るかな」と考えてみると、やはり限りはあります。だから、年齢を重ねるにつれて、ただ歌うのではなく、誰かのために、少しなりとも心の助けになるように、と歌う気持ちが強くなっています。

私のライブは、涙を流して聴いてくださる方が多いんです。あっちでもこっちでも泣いていて(笑)。でも、ありがたいですよね。泣いてスッキリしてもらうというのも、歌を歌うという仕事の大きな意味なのかもしれません。

「氷雨」に出合った20歳のころは、今のように個人で事務所を構え、作曲や作詞をして、私自身の思いと寸分も違わない歌を歌っている自分を想像したこともありませんでした。大切に歌い続けてきた「氷雨」がなかったら、今の私はないでしょう。でも、ささやかでも人と人の心をつなげたいと願い、自分の言葉で歌を歌う今の方が「氷雨」のヒットで忙しく過ごしたあのころ以上に生きている実感があります。


−−最後に、読者に言葉のプレゼントをお願いします。

日野さん:「心に太陽を、くちびるに歌を!!」。母が教えてくれた言葉で、中学1年生でオーディション番組「スター誕生!」に出場した時に「私の大好きな言葉です」と自己紹介をしました。

人生って、光を感じられることばかりではないですよね。私の心も明るく輝く時もあれば、ウルトラマンのカラータイマーのように点滅する時もありました。だからこそ、心に太陽を持ち続けることの大切さを感じています。

~EPISODE:追憶の旅路~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
友人夫婦が暮らすハワイ・マウイ島に行きたいです。2017年3月に旅をし、高台にある友人宅から毎朝眺めた日の出や、月に照らされた海の美しさが忘れられません。標高3,055メートルのハレアカラ国立公園のサンセットに感激したり、くじらのブリーチングを目にする機会に恵まれたりと大自然を満喫しました。数年前にオアフ島で購入し、気に入ってつけていたペンダントの作者にばったり会うという不思議なできごともあり、マウイ島には神聖な空気を感じました。
日野さんが偶然出会ったペンダント作者

ハレアカラ国立公園のサンセット

ハレアカラの夕日(日野美歌さん撮影)
世界最大の休火山・ハレアカラ山より日野さんが撮影した写真。ハレアカラとはハワイ語で「太陽の家」という意味。ハレアカラ山はマウイ島で最も標高が高く、島のどこからでもその姿を見ることができる。

プロフィール

歌手/日野美歌さん

【誕生日】1962年12月21日
【経歴】神奈川県鎌倉市生まれ。1982年歌手としてデビュー。同年発表の「氷雨」が大ヒットし、83年NHK紅白歌合戦に初出場。近年は自ら作詞・作曲を手がけ、「いのりうた」「明けの明星」などメッセージ性の高い歌を歌っている。
【趣味】桜を愛でること、ウォーキング、居酒屋探訪。地元に本拠地を構える横浜DeNAベイスターズのファン。
【そのほか】
■日野美歌公式ページ
「桜かふぇ」
​■日野美歌YouTube
「桜かふぇチャンネル」
​「MIKANOVA」
Instagram

Information

【日野美歌ライブスケジュール】
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(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)