「歌を愛した両親の“旅立ち”」 歌手 日野美歌さん【インタビュー前編】~日々摘花 第27回~

コラム
「歌を愛した両親の“旅立ち”」 歌手 日野美歌さん【インタビュー前編】~日々摘花 第27回~
人は必ず、大切な人との別れを経験します。その深い悲しみと、そこから生まれる優しさを胸に、“今日という日の花を摘む”ように、毎日を大切に生きてゆく……。「日々摘花(ひびてきか)」は、そんな自らの体験を、様々な分野の第一線で活躍する方々に共有していただく特別インタビュー企画です。

第27回のゲストは、歌手の日野美歌さん。本編は、前・後編の2回に渡ってお送りする、前編です。
19歳でデビューして間もなく、「氷雨」が55万枚を超える大ヒットを記録。2022年4月にデビュー40周年を迎えた日野美歌さん。前編では、日野さんが歌手になることを全力で応援してくれたご両親との思い出と別れについてうかがいます。

「美歌」の名に込められた、歌で父と結ばれた母の想い

−−これまで経験された「永遠の別れ」の中でとりわけ印象に残っているのは、どなたとのお別れですか?

日野さん: 2019年12月に父を87歳で、2021年1月に母を85歳で見送りました。両親ともにいつ何があってもおかしくない年齢ではありましたが、何となく「もう少し生きていてくれるんじゃないかな」と思っていたんです。ところが、あれよという間にふたりとも逝ってしまって……。「ああ、親との別れはこんなふうに訪れるんだ」と胸にぽっかり穴が開いたような感じでした。

−−ご両親は日野さんにとってどのような存在でしたか?

日野さん:優しかったですね。いつも応援してくれて、私が歌手になることも大賛成でした。父も母も歌が大好きでしたから。そもそも、両親の出会いは母が勤務していた電電公社(現NTT)に旧国鉄の「うたごえ合唱団」の主宰者のひとりだった父が合唱の指導に行ったのがきっかけ。「美歌」という名前も、歌への想いを込めて母がつけてくれました。
幼少期の日野さんとお母様
日野さん:「そんな名前をつけて歌が下手だったら、かわいそうじゃない」と親戚は心配したそうですが、幸い幼いころから歌は得意で、よく歌っていました。「歌手になりたい」という意思も早くからあり、本格的に歌の勉強を始めたのは小学校6年生の時。テレビの子どものど自慢大会に出たことがきっかけで審査員の先生に声をかけていただき、当時住んでいた神奈川県鎌倉市から東京までレッスンに通いました。

両親は共働きで忙しく、私は小学校5年生まで、弟と一緒に横浜市の母の実家に預けられて育ちました。両親、とくに父には「子どもたちにさみしい思いをさせた」という思いが強くあったようですが、私自身は幸せな子ども時代を過ごしたと思っています。祖父母をはじめ、いろいろな人に優しくしてもらいましたし、何より両親はしょっちゅう顔を見に来てくれました。

家族みんなで暮らした中学、高校時代の日常を思い返すと、目に浮かぶのは、毎日片道1時間近くかけて通勤し、疲れて帰宅後、明日に備えて体操をする母の姿。そして、父が毎日作ってくれたお弁当です。父も母も一生懸命働き、とても大変だったと思います。それでも私や弟に精一杯の愛情を注ぎ、安くはない歌のレッスン代も何も言わず出してくれました。

父の旅立ち翌日のクリスマスディナーショー

−−ご両親の応援に応え、日野さんは19歳の時に「私のあなた」でデビュー。2曲目の「氷雨」が大ヒットし、デビュー2年目にして紅白歌合戦にも出場されました。お父様もお母様も、相当お喜びになったのでは?

日野さん:とにかく歌が大好きなふたりでしたからね。デビューできたことや「氷雨」のヒットはもちろん、私が歌い続けることをすごく喜んでいて、横浜のローズホテルで毎年開くクリスマスディナーショーにも欠かさず来てくれました。

奇しくも父が亡くなったのは2019年のクリスマスディナーショーの前日、12月15日でした。両親が毎年来ていることは会場の皆さんもご存知なので、ご報告しないわけにもいかず、ショーの最後に「昨日、父が亡くなりました」とお伝えして「遠くで汽笛を聞きながら」を歌いました。私が中学校のギター部の練習で歌っていたことをきっかけに、父が気に入って十八番にしていた歌です。

ワンコーラスを歌い、間奏に入った時のこと。何だか父がそこにいるような気配がしたんですね。それで思わず「お父さん、聴いてる?」と口にしたら、会場中を号泣させてしまい、大変なことに。一方、私自身は冷静に「とにかく最後まで歌わなければ」と歌っていたのを覚えています。

父のお通夜の日。弟のたっての希望で、お通夜の前に湯灌の儀を取り行うことになりましたが、私はシングル「桜の刻(とき)」のCDジャケットの撮影が入っており、間に合わなさそうでした。ところが当日はすべてが順調に進んで、ふだんよりも早く撮影が終わり、ぎりぎりの時間に駆けつけることができたんです。身体を清められ、袴を身につけた父の表情は生き生きとして父らしく、湯灌の儀に立ち会えたことを本当によかったと思いました。

不思議なめぐり合わせはそれだけではありませんでした。葬儀の日はなんと私の誕生日。もはや父が狙ったとしか考えられません(笑)。亡くなった人にとって一番さみしいのは、きっと、忘れられること。とくに父は人が好きでしたから、毎年楽しみにしてくれていたクリスマスディナーショーの前日に亡くなったことも、私の誕生日に荼毘に付されたことも、さみしがり屋の父からの「忘れるなよ」というメッセージだったように思います。
日野美歌さん、お父様と沖縄にて

合唱団の仲間の歌声が響いた、父の幸せな葬儀

−−人が好きで、歌が好き。お話をうかがっているだけでも、お父様の温かな雰囲気を感じます。

日野さん: いつも笑顔で、何か明るかったですね。晩年は腎臓を患い、若いころに吸い込んだアスベストの影響でじん肺にも苦しんで体はつらそうでしたが、心は強く、夢を持ち続けていました。合唱団で指揮を務めるような人でしたから、みんなとまた歌いたい、という思いが最後までありました。

その思いを、皆さんもわかっていてくださったんでしょうね。最後の最後、父が酸素マスクをつけ、意識があるのかわからないような状態になった時、「うたごえ合唱団」の仲間の方々が病院の個室に駆けつけてくれました。そして、父に「サブちゃん、来たよ」と声をかけ、父を囲んでみんなで歌を歌ったんです。「がんばれ」とおたがいを励ますような労働歌でした。

父の葬儀にも、合唱団の方々が何十名も集まってくださったんですよ。皆さんで列を組んで2曲ほど歌を歌い、まるでライブのようでした。父は地域の方たちや、私の友人や仕事仲間とも交流があったので、たくさんの方々が来てくださり、ものすごくにぎやかな葬儀でした。

葬儀は弟が中心となって葬儀会社とのやりとりなどを進めてくれたのですが、もともとは「家族を中心に小ぢんまりと」と相談をしていました。ところが、葬儀会社にたくさんの問い合わせの電話があったようで、弟から「姉ちゃん、このままではまずいよ」と(笑)。そこで、急きょ大きな会場を用意してもらったんです。
鎌倉の実家にて、お父様と弟さんと
−−大正解でしたね。

日野さん:本当にそうでした。たくさんの方たちから思いを寄せられ、にぎやかに見送られて、父はきっと満面の笑顔だったのではないでしょうか。父に申し訳ない表現かもしれませんが、すごく幸せな死だったなと思います。父の葬儀はコロナ禍の前でしたから、皆さんに参列していただきやすかったことも、華やかで、目立つことが大好きだった父にとってはラッキーでした。

ただ、葬儀の温かさというのは、来てくださった人の数とは関係ない気がします。母は2021年1月に亡くなり、父の葬儀のように、たくさんの方々にお越しいただくことはできませんでしたが、家族や親戚でゆっくりと母との最後の時間を過ごすことができました。いい葬儀だったな、と思います。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?
父の出身地・山形県の「いも煮」が食べたいです。毎年、お正月に父が作ってくれたんですよ。「いも煮」の基本の具材は里いも、牛肉、こんにゃく、ねぎですが、鶏肉を使い、にんじんやごぼうなども入れた具だくさんが、お父さん流。お客さんが多い家だったので、大きな鍋いっぱいに作るんです。みんなで鍋を囲んで食べるのが、すごくおいしかったですね。できることなら、あの「いも煮」をもう一度食べたいです。

いも煮

「いも煮」は農林水産省選定「農山漁村の郷土料理百選」にも選ばれた山形県の郷土料理。京都の郷土料理「いも棒(里いもと棒だらを煮た正月料理)」とする説もある。山形では収穫祭や地域交流の場として大きな鍋を囲む「いも煮会」が約300年前から行われていたとも言われ、「いも煮会」は現在でも地域の秋の風物詩となっている。

プロフィール

歌手/日野美歌さん

【誕生日】1962年12月21日
【経歴】神奈川県鎌倉市生まれ。1982年歌手としてデビュー。同年発表の「氷雨」が大ヒットし、83年NHK紅白歌合戦に初出場。近年は自ら作詞・作曲を手がけ、「いのりうた」「明けの明星」などメッセージ性の高い歌を歌っている。
【趣味】桜を愛でること、ウォーキング、居酒屋探訪。地元に本拠地を構える横浜DeNAベイスターズのファン。
【そのほか】
■日野美歌公式ページ
「桜かふぇ」
​■日野美歌YouTube
「桜かふぇチャンネル」
​「MIKANOVA」
Instagram

Information

(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)
インタビュー後編の公開は、9月30日(金)です。お楽しみに。