「消えない母の面影」弁護士 北村晴男さん【インタビュー後編】~日々摘花 第36回~

コラム
「消えない母の面影」弁護士 北村晴男さん【インタビュー後編】~日々摘花 第36回~
高校時代は甲子園を本気で目指し、現在はゴルフをこよなく愛するスポーツ好きとしても知られる北村さん。現在の姿からは想像できませんが、赤ちゃんのころは心臓が弱く、お母様はいつも北村さんの健康を心配していたそうです。後編では無償の愛を注いでくれたお母様とのお別れや、エンディングについてのお考えをお話しいただきました。

生後すぐの孫と余命わずかな母との温泉旅行

−−お父様が亡くなった2年後、お母様も92歳で他界されました。お写真を拝見したことがありますが、子どものころの北村さんはお母様にそっくりですね。

北村さん:よく言われます。自分でも母を見て「おふくろ、全く同じ顔をしているな」といつも思っていましたね。
北村弁護士の家族写真
−−どのようなお母様でしたか。

北村さん:間違いなく、僕を溺愛していました(笑)。幼いころは僕も母にくっついてばかりいましたけど、小学校高学年ともなると距離を置くようになったので、母にさみしい思いをさせたかもしれません。

僕は赤ちゃんのころに心臓が弱かったらしく、元気に遊びまわるようになってからも、母は僕の身体の心配ばかりしていました。中学、高校で野球部の練習に打ち込んでいた時も、僕に野球をやめさせようと必死でした。

「大丈夫なのに。うるさいなあ」とは思いましたが、それが母の愛情だということはよくわかっていましたよ。母は父が経営する鉄工所を必要に応じて手伝いはするものの、基本、専業主婦でしたが、僕が中学生の時、父の会社に勤務していた叔父が労働争議を起こし、従業員を全員引き連れて辞めるという事件がありましてね。結果的に会社の経営は好転したのですが、母はこのままでは僕を大学まで行かせてやれないのではと心配し、保険外交員の仕事を始めたんです。その姿を見ていましたから、どんな時も母の愛情を疑ったことはありません。
北村さん:親父から言わせると、母は「遊んでばかりいる人」。そんなことはなかったのですが、とにかく社交的で、いろいろな集まりに顔を出しては皆さんとおしゃべりをするのが好きな人でした。亡くなる数カ月前から食が細くなり、兄が病院に連れて行ったところ、末期の膵臓がんで入院。医師からは「1カ月持たない」と言われました。

母には病名を伝えていません。残された時間が短く、母の心が心配で告知をためらっているうちに時間が過ぎて行きました。折しも長男一家に娘が生まれ、なんとか母に会わせたいと伝えると、長男の嫁が九州の自宅から生後9か月の赤ちゃんを連れて長野まで来てくれることに。病院に外出許可を取り、近くの温泉で最後の団らんの時を過ごしました。

長男の嫁が、母と赤ちゃんと一緒に温泉に入ってくれたんですよ。初めてのひ孫を抱き、みんなでいろいろと話もできて、母はうれしそうにしていました。
−−いい時間を過ごせて、本当によかったです。

北村さん:小さい赤ん坊を連れて遠路はるばる来てくれた長男の嫁にとても感謝しています。これ、誰にも言っていないんですけど、孫娘の顔を見ると、母を思い出すんです。どこか母の面影が残っているんですよね。

子どもが親の言う通りに生きるはずがない

−−ご両親を見送って数年経った今、おふたりの存在をどのように感じていらっしゃいますか。

北村さん:母はまさに無償の愛を子どもに注いでくれましたし、父も僕をずっと心配し、応援してくれました。父も母も優しかったな、と思います。なんだかんだ言って僕を信じてくれた。僕が生きていくうえで、それが一番の力になりました。

司法試験に7回も落ちたり、最初に勤務した法律事務所のボスと合わず、クライアントもゼロなのに3年で飛び出して独立したり、僕の人生は無茶ばかりでした。それでも、前向きに生きてこられたのは、両親のおかげです。だから、ふたりには感謝の気持ちしかありません。
−−北村さんには3人のお子さんがいらっしゃり、成人してそれぞれの道を歩まれています。子育てにおいて、ご両親からの影響もあったのではないでしょうか。

北村さん:日々の子育ては妻が奮闘してくれていましたから、僕は何も語れません(笑)。ただ、自分自身を省みて「子どもが親の言う通りに生きるはずがない」とは思っていました。人間って結局、自分の好きなことしか努力できないですよね。だから、「自分の好きな道を選び、それに一生懸命に取り組んでほしい」という考えでした。

もちろん、親として息子や娘たちのことを「大丈夫かな」と心配することはありましたよ。今では笑い話ですが、中学に入ったころの次女にはハラハラさせられました。次女はまったく勉強をしない子だったんですよ。僕も中学、高校のころは野球ばかりしていましたが、さすがに定期試験の一週間前には勉強の真似ごとぐらいはしましたし、長男や長女もそうでした。ところが、次女は一夜漬けすらしないんです。

人生にはさまざまな課題が生じます。その課題に向き合おうともしない怠け者になったらどうしよう、と頭を抱えました。でも、次女は子どものころから歌が好きで、当時ミュージカル教室に通っており、その発表会を見に行くと、それまで一生懸命に努力したことが良くわかりました。その姿を見てほっとして、余計なことは言わなくなりました。次女は今、舞台女優として好きなことに思いっ切りチャレンジしています。

親父の年まで健康でゴルフを

−−ところで、北村さんは葬儀についてどのようなお考えを持っていらっしゃいますか。

北村さん:葬儀というのは、残された人たちのためのものだと僕は思っています。だから、葬儀に参列させていただく時には、自分が故人をしのぶことが、わずかばかりでもご遺族の慰めになればと思っています。

両親は高齢で亡くなり、お世話になった方々もほとんどが他界されていたので、葬儀は家族や親戚など身内だけで執り行いました。北村家は無宗教で、父が生前に自分のお墓を用意してくれてはいましたが、葬儀について申し送りはなく、いろいろなことを手探りで兄と一緒に決めました。

お経をどうするかを葬儀社に尋ねられた時のこと。兄は私以上に変わり者なので「お経はいらないんじゃないか」と言いましたが、僕は、「ちょっと、待って。親父も多分、お経はあげてほしい気がする」と。葬儀社に紹介してもらったお寺のお坊さんにお経をあげてもらいました。てんやわんやでしたが、父の時も母の時も、身内でゆっくりとお別れができたのはよかったかなと思っています。

−−ご自身のエンディングについては、何かイメージされていますか。

北村さん:弱りましたね(笑)。何も考えていません。そもそも先のことはあまり決めない性格なんです。ただ、ひとつだけ目標があって、それは95歳まで健康で大好きなゴルフを続けること。父が95歳で亡くなるまで元気に歩いていたので、それは超えなければと思っています。

弁護士の仕事については、自分が限界を感じたり、周りから「引退を!」と言われた時が潮時かなと思っています。ただ、生涯、社会とはつながっていたいですね。将来を担う若者たちに日本の歴史や様々な社会問題について自分の頭で考えてほしいという思いで「YouTube」での発信もしているのですが、そうした活動はライフワークとして続けていきたいと考えています。

自分の葬儀についてひとつだけ希望を言うとすれば、サザンオールスターズのメドレーを流してもらいたいです。必ず入れてほしいのは、「蛍」、「涙のキッス」、「真夏の果実」、「TSUNAMI」。そのほかの選曲は家族や友人に任せます。しょっちゅうカラオケで歌っていますから、悩むことはないはずです。
−−最後に、読者に言葉のプレゼントをお願いします。

北村さん:「勇気を持って明るく生きる」。人生で大事なのは、これに尽きると思います。

~EPISODE:追憶の旅路~~

人生でもう一度訪れたい場所はありますか?
とにかくゴルフ場が好きなんです。特に好きなゴルフ場が3カ所ありましてね。まず、「東京クラシッククラブ(千葉県千葉市)」。プロゴルファーのジャック・ニクラス氏が自然を生かして設計したカントリークラブで、景観と戦略性が素晴らしいです。クラブハウスから緑豊かな18番ホールを眺めていたいですね。

2カ所目は、宮古島の「エメラルドコーストゴルフリンクス」。海越えの16番ホールに立ち、エメラルドブルーの海を眺めたいです。3カ所目はハワイ・オハフ島の「ホアカレイカントリークラブ」で、ここは18ホール中13ホールが池がらみ。青々とした池と緑豊かな大地に包まれた素晴らしいコースです。

#東京クラシックキャンプカフェ

「東京クラシッククラブ」は会員制のゴルフクラブですが、敷地内にあるグランピング施設に併設されたカフェ「TOKYO CLASSIC CAMP CAFÉ」は非会員も入場可。森の中の隠れ家のような空間で、自家焙煎コーヒーやスリランカ人シェフによるスリランカカレーなどのランチメニューやドリンクを楽しめます。
スリランカ人シェフによる一番人気のカレー

プロフィール

弁護士/北村晴男さん

【誕生日】1956年3月10日
【経歴】長野県更埴市(現・千曲市)生まれ。早稲田大法学部卒業。在学中から学習塾経営をしながら司法試験を8回受験し、1986年に30歳で合格。1992年、北村法律事務所(現・弁護士法人北村・加藤・佐野法律事務所)設立。日本テレビ系「行列のできる相談所」にレギュラー出演中。
【趣味】野球とゴルフ。
(取材・文/泉 彩子  写真/刑部 友康)